教集25 昭和二十八年九月六日(1)

 いま書いているのは、いつかも話した『医学革命の書』ですが、この間は「序文」を読んだので、その次に載せるので一番根本的のものが、だいたいできあがりましたから読ませます。

 (御論文『医学革命の書』「現代医学論」朗読)〔「著述篇」第一一巻一八三ー一八八頁〕

 これらのことは信者の人はたいてい分かっていることですが、根本は一般の人に読ませるのですから、こういうふうにすっかり書かなくては分からないので、こういうように書いたわけです。

 それから注意しなければならないことですが、名前は言いませんが、中教会が地方にあって、東京に出張所がある所で、その出張所で熱心に働いている信者の一人が、最近信者としてはちょっとあり得べからざることをしようとしたのです。それは神様から止められて事無きを得たのですが、そういうことはあり得べきことではないのです。そこで呼んでよく調べてみたところが、そこは出張所になっていて支部長がいないのです。つまり支部であって支部長がいないということが、たいへんな間違いなのです。支部はよいのですが、しかし支部長はちゃんといなければいけないのです。というのは支部長がいないと、そこに属している信者になにかあった場合には、出張する先生を待たなければならない。ところがそれが地方なのですから、そうすると支部はガランドウと同じです。ガランドウでは支部としての機能を発揮することはできませんから、それは嘘なのです。そこで私は、「その支部を止せ、それで支部長になるべき人ができたらまた開けばよい」と言ってやりました。そういう嘘をやっていたから、そこであり得べからざる間違いが起こりかけたのです。そういうようなわけで、これもやっばり理屈に合わないことです。だからやはり、支部なら支部とすれば、その機能を発揮することができるような組織ができていなければならないのです。それをぜんぜん、そういうようなでたらめでいるということは許されないのです。よく医者などでは出張所ということがありますが、それと同じように思ったのでしょうが、神様のほうはそれと同じようではぜんぜんいけないのです。そういうようで、なにか問題があるとか、なにかある場合に、それを調べてみると必ず間違ったところがあるのです。それを神様が教え注意されるのです。この間もあったことですが、私の写真を支部長と信者と両方でいただいて帰ったのですが、いただいた写真が同じものだと思って、両方で間違えて持って帰ったのです。そうすると信者のほうの写真に皺みたいなものができてしまって、とても掛けておけないような見苦しさでそれがはっきり分かるのです。それでどういうわけかという質問があったので、とにかくこっちに持ってきて見せろと言って調べたのです。それは同じ写真だからよいと思って交換したのでしょうが、それはいけないのです。それで神様がそれを知らせるためにそういう皺ができてしまったわけです。そうしてそれでお知らせになったわけです。そういうようで、いただいたものを、同じものだからといって替えるということは、たいへん間違ったことです。それをいただいたということは、その瞬間にその人の護<まも>り神なのですから、人が違えばぜんぜん意味がなくなり、結局無駄になるわけです。それも、チャンといただいた以上は自分の将来を御守護してくださると思えば、そういうことはできないわけです。つまりそこに心に隙があるか、あるいは軽く見ているわけです。それでウッカリとそういうことをしてしまうのです。ですからこの間も言ったとおり、チャンと理屈があるのですから、ちょっとでも理屈に外れたことはいけないのです。ですから信者さんのいろいろなことを見ていると、つまらない、どうでもよいことに非常に重きをおいて、ちょっとしたことが御無礼になったのではないかと心配して質問してくることがあります。それで非常に重要なことを割合に軽く見ているのです。その区別を割合に知らないのです。ですから重要なことと、そうでないこととの差別をよく知らなければならないのです。いまの私の写真というのは一番重要なのです。「光明如来」とお掛軸を書きますが、あれは私が書くのですから、光明如来様よりか私が上なのです。ところが人によると光明如来様のほうを上にして、写真のほうを下にするのがありますが、これはたいへんな間違いです。ですからそういうように理屈を考えるとすぐ分かるのです。ところが昔からのいろいろな宗教はそれがなかったからなのです。しかし昔でも、仏体とかそういう場合には管長なり教祖が魂を入れるということになってますが、やはりそういったのは、形とか彫物とか絵というものは坊さんにはできないので、魂だけは開祖なら開祖が入れることになってますが、やはりそれと同じようで、私が書くということは、それが最高のものとして見なければいけないのです。ですからそういうような理屈に合わなければいけないということを、よく心得ておかなければいけません。

 それから今日の一一時半から放送があるのですが、これは放送局が最初言ったこととたいへん違うのです。こういうことなら私は録音はとらなくてもよかったと思うのです。最初の話では、私と、立正佼成会の会長の庭野日数<にわのにっきょう>、PL教団の御木徳近<みきとくちか>ということを言うので、私もしゃべったのですが、今日発表したところによると、庭野という人だけで、あとはぜんぜん名も知れないような人です。修養団捧誠会総裁出居<いでい>清太郎、日之教教<ひのおしえきょう>主管者佐久間俊一というのですから、ぜんぜん知らない人です。ですからどうもはなはだ感心しませんが、いまとなってはどうにもならないから、やむを得ません。そういうようですが、一一時半になりますから、ちょっと聞いてみようと思います。ラジオをかけさせます。

 (NHK第一放送「ラジオ・アンケート」拝聴)

 やっぱり救世教を主にするつもりだったわけです。ですから他のは、つき合わせです。時間を見たら、やっぱり私のを倍以上長くしてました。先方の考えでは救世教だけにするつもりだったが、そうすると宗教宣伝になるので、それではいけないため、他のを混ぜれば新宗教としてとか、いまのように「世直し」というような意味になりますから、いまのようにやったわけです。他のは決まりきったことを言ってます。私はもっと言いたかったが、これはしゃべりにくいことなのです。というのは、どうしても自分の宗教が一番だ、他のは駄目だと、思いきって話せば話せますが、それではどうも具合が悪いのでそういうように言わないで、人に悪い感じを与えないようにするために、ああいうようにヨドミヨドミ話したのです。それで自分が病気を治す力を神様から与えられたということも、あんまり言わないようにするので実に話しにくいのです。それから他の話もしましたが、美術館のことや農業のことはスラスラ話したので聞きやすいのですが、一番苦手というか、言いにくいことを話すので困りました。そうかといって、ある程度は医学の間違っていることや、こっちでは病気の治ることも言いたいが、それもあんまり言うことができないわけで、ずいぶん厄介な問題でした。それも世の中が変わってきて、救世教が社会から認識されれば、それは思いきって言えるが、いまのところは実にどうも変な具合です。ですからまたああいった変な話し方になったわけです。でもいくらかは病気に対する世の中の見方と違うところが出てましたから、いくらか役に立つでしょう。

 それから病気に対して少しお話ししますが、いまはどんな人でも、とにかく一番の病気の原因は頭で、それから頸から肩の凝りです。ですからどんな人でも頭が痛いとか、あるいは食欲がないとか、体がだるいとか、いろんなことはほとんど微熱です。いわゆる神経衰弱というのがそれです。それはいま言ったとおり、頸のまわりとか肩とかの凝りです。それについて書いてみました。

 (御論文「医学封建」朗読)〔「著述篇」第一一巻六〇〇ー六〇三頁〕

△御講話おわり△

「『御教え集』二十六号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p71」 昭和28年09月06日