教集25 昭和二十八年九月五日(1)

 医学に対しては始終いろんな角度から批判していますが、いくら書いても後から後から出てくるのですから、内容によほど種々雑多なものを含んでいるのです。これもいままでの見方と違った見方で書いたのですが、つまり医学というものはすばらしい封建的のものです。ところがいまはすばらしく進歩したものと思っているのです。そこにおそろしい食い違いがあるのです。ではいったいどこが封建かということを書いたのです。

 (御論文「医学封建」朗読)〔「著述篇」第一一巻六〇〇ー六〇三頁〕

 これは『医学革命の書』の中の一項目です。いま読んだとおり医学というものは文明の一部なのです。それを全部と思ってしまったところに誤謬があるのです。文明を進歩させる全部と思って、実は一部の城郭に楯寵<たてこも>って、そうしてその城郭の中に入っていない人間を自由にしようとする、そこにたいへんな間違いがあるのです。地平線の下にあるのが万物ですから、それはどんなにでも自由にできるのです。人間は地平線であるからして、地平線の上に人間を救うべきものがあるのです。つまり地平線が人間とすれば、下に行くほど獣になって行き、上に行くほど神に近くなるのです。結局最高は神であり、人間は神と獣の間にあるのです。それで人間を救うというのですから、人間以上の存在でなければ人間を救う資格はありません。それをいまの医学は獣の救いを人間に当てはめようとしているのです。医学は猿やモルモットや兎や二十日鼠を試験して、それをそのまま人間にもってゆくのですから、つまり地平線にいる人間としたら、それより以下は獣ですから、獣を材料とするのはあたりまえですが、それをもってきて人間の病気を治すというのは、およそ見当違いです。いま読んだのはそういう意味のものです。だからして医学がいかに一生懸命にやっても、ぜんぜん見当違いを一生懸命にやっているので治るはずがありません。それではいままでなぜそういう愚かなことをやっていたかというと、地平線の上にあるものが見えなかったのです。見えなかったというよりか、実際は見せなかったのです。これは実際神様も人が悪いのです。しかし、見せては神様のほうで都合が悪いからです。これを見せては、いままでの物質文化を発達させるに都合が悪かったのです。どうも人間は、物質文化を発達させるには、神様のような最高のものを見せないほうが、物質を進歩させるという精神力は非常に強くなるのですから、神様はそういう手段を選ばれたのです。しかし神、仏と、宗教は出しましたが、あんまり上のものを出しては物質的の進歩は形式がちになるから、どこまでも最高の神ということは隠して、二流三流のものを出して、これが神であり、これから生まれたのが宗教だというわけで、悪く言えば人間は神様に瞞<だま>されていたのです。しかしそれはしかたがないので、そうでなかったらこれまで物質文化は発達しなかったのです。ですから非常にすばらしいトリックというわけです。そしていままでの人間が神をみる、神観というものも間違っていたわけです。キリストでも釈迦でもマホメットでも、偉いには違いないが、やっぱり二流三流の地位だったのですから、本当のものはぼかしてはっきりはしなかったのです。ただそれでよかったのです。そこで私は宗教では救えないということを言うのですが、宗教で救えれば、いままでに天国になっているのです。宗教があれだけたくさん出ても相変わらず地獄ということは、つまりいままでの宗教では救うことができなかったわけです。これは超宗教でなければ救えないわけです。そこで救世教というものは超宗教であり、これが初めてできたわけです。そこで宗教というから他の宗教と同じに見られるのですが、いまのところは致し方がないが、いずれはだんだん分かってきます。そういう意味ですが、それを分からせるのが仕事なのです。それはなかなか難しいのです。やっぱり本物のダイヤモンドはいままで見せなかったので、つまりガラスに角度をつけて、これがダイヤモンドだと言っていたのですから、本物を分からせ、信じさせるということは、なかなか骨が折れます。しかしその代わり、いままでにないような奇蹟や、いろいろなものを見せるからして、信者になる人はそれが分かるから入信するのです。ですから非常におもしろくもあるし難しくもありますが、しかしどうしてもこうしなければ、こういう時期を越さなければ救えないのだからしかたがありません。
 それからいつも言う話ですが、ちょっとおもしろく書いてみました。

 (御論文「毒塊人間」朗読)〔「著述篇」第二巻五九三ー五九六頁〕

 これについて、昨日、元日活の社長をした人が来ての話で「実は今度すばらしい計画をした。それは東京に立派な娯楽場のような物をこしらえて、そこでいろんな享楽をさせる計画をしているが、それに賛成してもらいたい」と言うのです。その裏には援助してもらいたいということなのでしょう。しかし私は「それは止<よ>したほうがいい。どういうわけかというと、それは罪を作るからだ」と言ったのです。そうしたら非常に感心して「一言でピタッとやられて、どうもいままでこんなにはっきり言われたことはない」と言って非常に感心していました。その人はお寺の息子でお寺の出なので、仏教のこともいろいろ聞いているが、たしかに罪を作るということはいけないと言ってました。それで「これからやるなら、良い事と悪い事があるが、全部良い事は世の中にはないから、良い事がいくらかでも悪い事より勝っていれば、差し引いて良い事のほうがオツリが来るから、プラスになるから、それならよい」と言ったら、「なるほど」と言ってました。なおいろんなことを簡単に言ってやりましたが、驚いてました。結局いまの人は急所をつかんでないのです。急所をつかめないのです。急所をつかむほどに頭が良くないのです。ですからいろんなことを見ていると、よけいなことをしたり、骨折って失敗したりして、カラカサ屋の小僧式が多いのです。偉い政治家などはみんなそれです。またそのとき共産主義の話も出ましたが、その人は右翼団体を作るというのです。その人はなかなか覇気<はき>はあるのです。そうとうに腕もあるようです。けれどもやることがみんな見当違いや無駄があるので成功しないわけです。それで右翼団体を作って共産主義と戦うというのです。それについては次のように言ってやったのです。すなわち「共産主義と戦うのもよいが、そうすると結局争いになるではないか。争いでもよいから成功すればよいが、成功しない。いっぽうが勝ち、いっぽうが負ければ、負けたほうは悔しがってまた勝つことを考える。つまり仇討<かたきう>ちと同じで、一度殺すと、その伜<せがれ>が悔しがって仇を討つ。そうすると負けたほうはまた悔しがって、そのまた伜がやるということになり、それではしようがない」と言うと、「なるほど」と言ってました。第一共産主義というものは失敗するに決まっているから、私はよく共産主義のことを聞かれるが、気にしないでいる。つまり共産主義というものはスターリン一代限りのもので、いまにだんだんおとろえてゆくから、問題にするにあたらないと言ったら、感心してました。そして私はいつも仕事をするのに、ただ急所だけをチョッチョッと手を打っておくだけです。ですから私はずいぶんいろんな仕事をしているが、あせったりしないで、いつも悠々としているが、それは肝腎な急所だけをちょっとやっておき、あとは人にやらせればよいのです。人間は急所を見つけるのが肝腎だから、あなたもそういうようにしなさいと言ったら、非常に喜んでいました。それを連れてきたのが日置<ひおき>という人で、いつか『サンデー毎日』に私のことを書いた人で、この人もそれを聞いて、笑って感心したような顔をしていました。

 そういうようで、信仰でもなんでもいっさいは急所です。ですから急所を見つける能力を養うわけです。それには頭が良くなくてはならないのです。頭が良くなるということは、頭の薬毒を早くとるということです。ですから熱が出て頭が割れるほど痛いということは非常によいのです。それは頭の深い所の毒が溶けて出るときは非常に痛いのです。神経の側だからです。頭の外側の場合はそうでもありません。そういう割れるように痛いのは頭の奥のほうだから、それは非常によいのです。それを知らないから医学のほうは氷で固めるので駄目になるのです。だから日本脳炎というのは、このくらい結構なものはありません。子供などで日本脳炎をやったら、必ず学校の成績が良くなります。そういうようなわけで、浄霊でも急所です。やっぱり病気にはみんな急所があります。またその急所がとんでもない所にあるのです。これなども意外なのですが、ロレツがうまくまわらないで舌がつる、という原因はどこにあるかというと、鼻の奥(アデノイド)のまた奥にあります。ですからそういうのは鼻のそこを目掛けて浄霊すると治ります。それから鼻に関係したことで、臭覚がないとか、始終風邪ひいて水<みず>っ洟<ぱな>が出たり、鼻がつまりますが、それはここ(小鼻の両側)をやればよいのです。前からやってもよいですが、その場合そこを押すと痛いですが、蓄膿などはここが原因です。鼻から出ようとしてここに来るのです。鼻がつまったときにはここが多いです。それから他の鼻はここ(後頭部)です。ここから前のほうを目掛けてやると霊が通ります。そういうようで、思いもつかない所に原因があります。だから急所といっても、分かりやすい急所と分かりにくい急所があります。また病気ばかりでなく、いろんな事情も、意外な所に急所がありますから、それを発見しなければならないのです。それにはやはり智慧証覚です。智慧が働かなければならないのです。この智慧が働くということは、頭の中の毒素と、その人の精神状態にあります。ちょっとでも不純なおかしな野心でもあると智慧が曇るから働かないのです。その人の考え方にそういった不純がなく本当に世の中人のために尽くすという気持ちだと智慧も働くのです。だからやっぱり心の悪い人は必ず失敗しますが、それはそういうわけです。だからさっき言ったように共産主義は必ず失敗するということはそういうわけです。それは不純だからです。本当に世の中のためになり、多くの人を幸福にするという考えはないので、自分の利益のためには人を殺すのはへ<ヽ>でもないのです。粛正といって非常に多くの人を殺してます。中共などもやってますが、中共もそういうようで必ず倒れます。もう長いことはありません。ですから朝鮮問題にしても結論から言うと中共の大失敗で、アメリカの大成功です。韓国がまさに風前の灯<ともしび>ということになったときに、もう一息で成功するところだったのですが、ドッコイとアメリカが遠くから援軍をよこして間に合って、とにかく押し返して封じ込めたということは、アメリカのほうが正義があって、中共のほうが不正義だったからそういう結果になったのです。だから共産主義を恐ろしがってますが、共産主義は恐れる必要はありません。そういうのは決して成功するものではないので、ある時期までなのです。だから先が本当の正義でやればそれは恐ろしいです。といってもこっちは恐ろしくはないので、悪人には恐ろしいのです。そういうようで、悪い奴はそんなに恐ろしくありません。そういうような見方も、やっぱり急所です。どっちが不正義かということです。日本が戦争に負けたのも、日本が正しくなかったから負けたのです。それで日清日露の戦争は日本のほうが正しかったから勝ったのです。ですから日本は神国とかいったところで、これは人間の都合のいいように解釈したので、つまり正義のほうが勝ったわけです。だからそういうように考えてゆけば、正義のほうが勝ったとすれば、正義は神様だから神国には違いないです。つまりそれが物事の判断の急所です。

 それからこれは参考になるからちょっと話しておきますが、この間ある支部で、一生懸命に働いていた人が、ちょっと理屈に合わない変なことがあったのです。その事情は言えませんが、それで私は変だと思って、その支部を監督している中教会長とその変な人もチャンと良くなって一緒に来ましたので聞いてみると、そこは出張所になっていたのです。……中教会は地方にあって、東京に出張所をやっていたのです……。出張所をおくということは別に悪くないが、そこの支部長がいないのです。支部長がなくて出張所があったのです。それは嘘であって、それを知らせるために神様がなさったのです。ですから支部は結構ですが、支部長がいなければならないのです。支部長がいなければ、もしかそこの信者が病気とかいろんなことがあった場合に、中教会は地方にあるのですから、支部長という責任者がなかったら、カラッポのようなものですから嘘なのです。支部と名のつく以上は必ず支部長がいなければならないのです。それで「それは閉鎖しろ、支部長ができたらやるように」と言ってやりました。ですから理屈に合わないときには必ずお知らせがあります。ちょっとでも変なことがあると、それをすっかり調べてみると必ずなにか間違ったことがあります。ですからそういう理屈に合わないことや、なにかおかしなことがあると思ったら、そこを考えて、どこかに間違ったことがあると考えると必ずなにかあります。それもこれもやっばり智慧証覚がないとそれを発見することができないのです。ですから急所を発見することと、それから順序を間違えないことです。この順序を違えるということはよくあります。違えるということは、気がつかないのです。それから知らないことがあります。例えばこれを先にやり、こっちを後からやるという区別が分からなかったり気がつかないことがよくあります。そういうことはちょっと面倒なようですが、それを知ってしまうと無意識で順序を正しくします。霊界は霊主体従<れいしゅたいじゅう>であるとともに、それから体主霊従<たいしゅれいじゅう>のこともたくさんあるのです。しかし結局は霊主体従になりますが、一時的には体主霊従のことがあるのです。というのは最近のことで、この間放送局で録音をとりに来たのです。……その放送の予定は明日の午前一一時半ですが、これは私と、立正佼成会の会長の庭野という人、PL教団の御木徳近<みきとくちか>、もう一人、日之教<ひのおしえ>とかいうそこの教主と、四人が出る予定ですが……最初一〇日くらい前に来たときにしゃべったところが、どうも思ったようにしゃべれないのです。なんだか圧迫感があるようなのです。それで私は気に入らなくてしようがないのです。だからテストしてみて具合が悪いと思ったらもう一度やるから、遠慮なく来てもらいたいと言ったところが、先方でもそう思ったせいか間もなく来て、今度は私は無事にやれたのです。それで前にやったときにはどうして思うようにゆかないかというと、坐る位置が違っていたのです。先方が上座でこっちが下座になっていたのです。ですから仮に坂なら、先方が上でこっちが下です。そのときには気がつかなかったのですが、後でさっきはどうも変だったなと思ったら、順序が違っていたなと思ったのです。それは上座でなければならなかったのです。このことは無理にしなくてもよいが、肝腎なときにはその位置が非常に影響するということがよく分かります。ですから浄霊の場合にも上座に坐ると効きがたいへん違います。上座から下座に向かってやると効きがたいへんな違いです。しかし急なときにはそうはゆかないことがあります。怪我をして出血が多いというときにはすぐにやらなければならないが、やっぱり臨機応変にやらなければならないのです。こういうことも急所なのです。前に『信仰雑話』にも書いてあったと思いますが、「順序」というものがいかに影響があるかということです。いまの人は順序ということにはぜんぜんかまわないのですが、いま一番いけないことは、建築をするときにたいていな所は子供の部屋を二階にとるのです。これがたいへんな間違いです。それで親不孝が出るのです。それでふだんいるということより寝る所がたいへんなのですが、親よりも上に寝るということは、形では分からないが、霊界ではそういうようになるのです。霊界はでたらめではないので、実に厳格になってますから、霊主体従の法則によって、順序が違っているとそれだけ影響がきますから、苦しかったり思うようにゆかなかったり、なんだか気持ちが悪いものです。ですから、私がこうして高い所でしゃべるから、しゃべりよいし、またあなた方も聞きよいのですが、これが逆になったら変なものです。ですから「神は順序なり」で、神様は非常に順序がやかましいのです。仏様を拝むたびに祖霊がたくさん来ますが、それは実に順序がキチンとしています。大先祖は上段にいて、それからだんだん新しい先祖ほど下にゆき、親子兄弟、親戚と、その順序は正確に並んでいるわけです。だから家庭でもいろんな場合は、親子兄弟の順序をでたらめにしないようにするのです。そうするといつも気持ちよく平和にゆくのです。争いや言い合いがあったりいろいろしますが、そういうときには坐ることとかいろんなことでみんな順序が違っているのです。それで親が坐る所、長男、次男の坐る所と、決まっているのです。それで食事のときに順序がチャンとしていると気持ちよくゆくのです。それが順序が違っていると食事中に喧嘩したり気持ちが悪いことがあるのです。そういうことは些細なことのようであって、大きなことです。ところが霊界にはいろんな邪神もいるし、反対派のほうの霊がいて、それが順序を壊そうと始終やっているのです。それが体に写っていろんなことがあります。それで私を邪神は始終狙っています。しかし光が怖いから側には来れないが、遠まきにやっているのです。なにかあると、これは邪神がやっているなとすぐに分かりますが、それでとんでもなく順序を変えるのです。詳しく言うとこんなことで影響するかと思いますが、私を下にしようとするのです。といっても目に見えるようにではないので、それは実に微妙なものですが、そうすると私の光がちょっと跡切れるのです。それで跡切れるほど邪神の寿命が延びるのです。それはどうせ自分たちはもう長くないということは分かっているのですが、やはり邪神としての権力を持ってますから、その権力を一日でも長くさせたいのです。そこで私の光を妨げるのです。いままでのいろんな事件もみんなそれです。それによって一時延びるのです。しかし私のほうがだんだん強くなって、しまいには先が往生します。それからがミロクの世になるのです。

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「『御教え集』二十六号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p63」 昭和28年09月05日