『御垂示録』二十四号 昭和二十八年九月一日(6)

▽前節から続く▽

 いま私は「医学封建」という論文を書いてますが、ちょうどこれは封建思想と同じことです。新しいどんなに病気を治す方法を発見しても、医学以外は駄目だと言って、医学にかじりついて、他のものはみんないけないと言っているのは、封建思想と同じことです。チョンマゲ時代、西洋の文明がはいってきたときに、しきりに止めようとしたのと同じです。神風連《しんぷうれん》が電線の下を通るときに、穢れると言って扇をかざして通りましたが、いまインテリなどが「新宗教で病気を治すということは、とんでもないことだ、触れてはいけない」と言っているのは、ちょうど神風連と同じことです。だから科学という籠の中に閉じ込められているのではなくて、自分で進んで科学の籠の中に蟄居《ちっきょ》してしまって、科学以外の世界は、一生懸命に見ないようにしているのです。だから「井の中の蛙《かわず》大海を知らず」というのと同じことです。医学者というのは「井の中の蛙」です。

 いま書いているのは『医学革命の書』ですが、これは徹底して書いてあります。そうして一つ一つのお蔭話に対して批判を加えてありますから、それを読んだらどうすることもできないと思います。だから医学というものは非常な罪悪だということを徹底的に微に入り細にわたって書きました。今度の樋口さんの手紙の報告にも、アメリカの婦人は子宮を取ったり卵巣を取ったりするのが非常に多いので、その後の病気が一番多いということを書いてあります。女には肝腎な子宮や卵巣を取ることを良いとしているのですから、その頭たるや、どうかしていると言うよりほかありません。根本は病気が治らないから、その病気にかかっている子宮や卵巣を取るのです。ところが人間の体にある自然治癒力のことを本当に分かっていないのです。ですからほうっておけば治る、そういう本能が人間にはあるということを、うすうすは知っているが、はっきりとは知らないのです。だから病気の場合にほうっておくということが心配でできないのです。病気になればだんだん悪くなって、結局死んでしまうというように頭から思い込んでいるので、なんとかしなければならないと思い、病気になっている患部を切って取るというよりないのです。子宮が悪くても、ほうっておけば治ってしまうという原理を知らないのです。この『医学革命の書』ができたら、英文に訳してアメリカだけでなく、ヨーロッパのほうも東洋も、全世界に配ります。いまはどこの国にも大学や医師会がありますから、そこに全部配るつもりです。そうして一通りは読ませるわけです。やっぱり『聖書』にある「普く天国の福音を宣べ伝えらるべし、然る後末期到る」ということになるのです。ですからそれで言うことをきかなかったら、今度はたいへんです。神様は行き届いているから、知らせるだけは知らせて、それで言うことをきかない者は自業自得というわけです。つまりいまの人間の考え方というものは、上面がばかに小利口になって、芯がだんだん空《から》になってきたのです。だから非常に頭が悪くなってます。私はよく考えますが、昔の者は実に頭がよいです。この間も話しましたが当意即妙というようなことはいまの人間には駄目なのです。

 この間も洒落《しゃれ》のことから話したのですが、私はよく洒落を言います。洒落が自慢みたいにうまいのが出るのです。これは作ろうと思ってやるのではなくて自然に出るのです。ところで昔の人間はそういった当意即妙が非常にすばらしいのです。それはつまり頭がよいのです。よく講談などに出てくる曾呂利新左衛門《そろりしんざえもん》は実に頭が鋭いです。それから幕末ごろ江戸にいた蜀山人《しょくさんじん》というのも実に頭がよいです。蜀山人の歌や、多く川柳的のもの、狂歌といったものが実にうまいです。いまの人間では、文学者はずいぶんたくさんいますが、まねはできないと思います。これは有名ですが、蜀山人があるときに話していると、向こうに婚礼と葬式と両方通ったのです。そうすると「婚礼と葬式、向こうを通りにけり、あれもしに行く、これもしに行く」と言ったのです。いまの文学者にはそういうまねもできません。それから自分が片目の嫁を世話したのです。そうして婚礼のときに「みめよきはお家の為にふためなり、悪しきは家のかためなりけり」と言ったのです。その「ふため」と「かため」というところを実にうまくよみ込んだと思います。それから酒を飲むのでとうとう禁酒したことがありますが、禁酒のときの歌は、上の句は忘れましたが、下の句は「なれば何とか破れハンカチ《ママ》」というのです。ところがそれから間もなく飲み始めたのです。そうすると蜀山人を非常に贔屓《ひいき》にしている者が「先生なぜ禁酒を破ったのだ」と言うと、そのとき詠んだのが「我が禁酒、破れみのとなりにけり、それついでのめ、さしてのめ」と言ったのです。「ついでのめ、さしてのめ」というのは、「破れみの」を縫うところですが、それを実にうまく歌い込んであると思います。そういうような鋭い頭の人間はいまはいません。というのは、やっぱり頭に薬毒が多くなったためです。そこで頭の活動力が悪いのです。だから上面ばかりです。それはいまの医学にしても農業にしてもやはり上面の改良とか進歩というものです。だからだんだん細かくはなっているが、かえって大きな根本のほうを忘れてしまっています。

「『御垂示録』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p205~207」 昭和28年09月01日