『御垂示録』二十四号 昭和二十八年九月一日(22)

〔 質問者 〕結局邪念をとるということでございましょうか。

【 明主様 】邪念をとるということでは、もう駄目なのです。「とる」ということは「ある」わけですが邪念がなければ取る必要がないのです。邪念をなくしようということがいけないので、邪念はなくなっているから、そういう考えは必要ないのです。いくぶんでもあるから取ろうということになるのです。私は絵も画くし書も書くし、歌も作れば、建築もやるというわけで、すべて最高のものなのだから、結局同じです。だからある程度にゆけばすべてがその程度にゆきます。この間も植木屋に教えてやったことがあります。植木の葉が枯れかかったり、色が悪かったり、力がないとき に、植木屋は土ばかりを加えます。ところが土を変えられればよいが、変えられない場合がありますから、そういう場合には土から吸い上げる養分と葉や枝の数が合っていればよいですが、岩などがあって養分が上がらない場合があるから、そこで全体に養分がゆかないから枯れたり弱ったりするのです。そういうのは枝や葉を少なくすれば勢いがよくなります。ですから私は、だいたい葉の色や具合を見て切りますが、それを切ると全部に養分が張《みなぎ》るから元気がよくなります。すなわち人間の病気のことだけが一つ分かれば、他のものは全部分かります。自然農法にしても病気からヒントを得たのです。だからつまり作物を健康にするというわけなのです。いままでは作物がたくさん取れないということは、それだけの力がないからです。人間なら体の中に薬毒が多いから、元気が出ないのです。薬毒というのがやっぱり肥料と同じです。これは一つの真理を得れば、いっさいはそれと同じ意味なのです。それで苦しいことや悪いことはなんでも浄化作用と思えば、風水害も浄化作用なのだから、すぐ分かります。それでまさか空中などに薬毒があって穢すと言っても、やっぱり人間の想念や言葉が大事なのです。人間が悪いことを考えると、それだけ霊界が曇るのです。それから行為によっても曇るし、また土を穢すから、それを洗わなければならないから大水が出て洗うわけです。それから霊界を穢せば風が吹いて吹き払ってしまうというわけで、なんでも同じことです。それを当てはめてみれば分かります。だから私の言うことや説くことは新しい学問です。そうしてこれは本当の学問です。いままでの学問というのはみんな間違っているのです。間違っているというよりか、低い学問です。ごく下の低い文化です。それを進歩させ発達させているのです。私のはもっと上の学問です。つまりあなた方がいままでいろいろ習ったことは、小学校で習っていたようなもので、私が説くことは中学校から大学の学問です。それを一般人類は小学校の学問を最高のものと思って、たまたま大学の講義を聞かせると、あれは間違っている、迷信だと言うのです。それはとにかく小学校程度では大学の講義を聞いても分かるはずはないから、それはそう思うでしょう。けれども事実が承知しません。小学校の医学では病気は治らないが、大学に行けば治るからだんだん分かってくるので、それはしようがないということになります。そういったものでしょう。それでいままでの宗教というのは、小学校の高等科くらいなものです。だから科学とあまり違いがないのです。

「『御垂示録』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p217~219」 昭和28年09月01日