〔 質問者 〕地獄に落ちましてそういう修行をするのは、三つの霊が一緒になっている場合でございましょうか。
【 明主様 】それはそういうことには関係ないので、その人そのものの曇りです。曇りの浄化作用が地獄の苦しみなのです。しかしそういう曇りをつくったということは、副守護神がつくるのです。そういうことは言えますが、はっきり決めるということはできません。
〔 質問者 〕連帯責任でございましょうか。
【 明主様 】というが、上中下があるからそうも言えません。同じドングリならそれでよいですが、やはり階級があります。まあ総合責任というか、総合されたものです。だから難しく考えると、ちょっと考え難いが簡単に考えればわけなく分かります。それから、その奥の奥は説明ができないことがあります。むしろ感じです。これが覚りというものです。とにかく実に微妙なるものです。だから話すことも書くこともできません。これはやっぱり世界中で私一人だけが分かっているのでしょう。他の人は分からないでしょう。しかしその人の役目さえできれば、それだけ分からなくてもよいのです。仮に星なら星が、どうも太陽のやつはあんなに光ってシャクに障る。太陽のように光りたいといったところでしようがないので、星はやっぱりそれだけの光しかないのです。だから本当に考えたら実に神秘幽幻なものです。またそれが分かってしまってはおもしろくないので、分からないところにおもしろみがあるのです。実に神様というのは、なんとも言葉では言えない神秘なものです。そこで一番間違いないことは、物事を決めるということがいけないので、決めないことが間違いないのです。つまり物事を決めるところに間違いが生ずるのです。そうかといってまるっきり決めなければ変です。やはり決めるべきところは決め、決めるだけのものは決めるのです。それから決められないものは決めないでおくことで、決めようとして急《あせ》ったり、苦しんだりすることは損です。それからまた時というものがあって、その時にはこうしたほうがよい、また時が変わるとそうしてはいけない、またこっちに行ったほうがよいということになります。それも決めて決められないで、決められないで決めなくてはならないのです。そこで実に幽幻微妙と言いますか、なんとも言えないものがあります。それから分かっていて分からなくて、分からなくて分かっているということがあります。そうかといって両方同じでは、分からなくて迷ってしまいますから、どっちかに決めなければなりません。それからいつまでは決めていて、その先は決めないほうがよいこともあります。それから一時間だけ決めてよいようなこともあります。一時間だけ決めれば非常によいものを、一日決めていたために非常に悪くなります。その限度というものが分からないのです。しかしまるっきり分からなければ、なにも分かりませんから、ある程度は分からなければならないのです。お釈迦さんは「一切空」と言っているのですが、そう言えば絶対に間違いはありませんが、しかしそれではとにかくあんまり無責任です。生長の家などではよくそういうことを言ってます。「病気を病気と思うからあるのだ、病気はないのだと思えば病気はなくなってしまう」という説を唱えてますが、これもやっぱり決めたわけです。ないと決めていても、痛いときには痛いのです。いくら痛くないと思っても痛いのです。それは人間は霊だけで生きているのならそれでよいが、肉体というものがあるのですから。そこで覚りの境地というのは、昔から坊さんはその境地に入ろうとしていろんな修行をするのです。真言密教などもそうです。ぜんぜんなにもないのです。それで「お前分かったか」と言うと、「分かりました」「よし」と、それでよいのです。なにが分かったのだか分からないのだかさっぱり分かりません。しかし師匠にはそれが分かるのだそうです。もっともこれは分からないことはありません。その人の言葉と行いによって、どのくらい分かったかということは見当がつきます。そこで大僧正が法を授ける場合に、あいつはたいてい修行ができたから大丈夫だなと思うから「お前分かったか」と言うと「分かりました」「よし」と言って、お前には阿闇梨《あじゃり》の位をやると言うのです。阿闇梨の位といっても、形のあるものはなにもないのです。そういった煙《けむ》のものでやるのです。