教集25 昭和二十八年八月二十五日(1)

 一昨日ハワイの観光団が三〇人ばかり来て、その中に団長と夫婦一組の信者がはいっていまして、そのときの話によりますと、ハワイの信者は七五〇人ぐらいできているそうです。私はよく知らなかったので、そんなにできているとは思わなかったのでびっくりしました。そのときに話してあげたのですが、つまりいつも言うとおり、アメリカは緯<よこ>で日本は経<たて>だからして、経と緯を結ぶというその仕事をするのがハワイなので、ハワイは非常に重要な所だ、という話をしたのです。そういうわけで、日本とアメリカを繋ぐとも言えるし、結ぶ役とも言えるわけです。すなわち緯の文明と経の文明を結ぶというわけなので、それは救世教がやるのだということで、バッジの形になるわけです。それでこのバッジの真ん中の丸が伊都能売<いづのめ>で、赤いのは日本で、黄色いのは私ということになります。つまり黄金です。そういう意味だから、大いにハワイは重要な責任があるということを話してあげたのです。樋口さんは今月の六日にハワイを立って、いまはロサンゼルスで活動しているはずですが、これまた目覚ましい成果をあげるだろうと思ってます。

 それから来月は『救世教奇蹟集』という本ができて、出版になる手はずになってますが、これはすばらしいものです。とにかくいままであった奇蹟の顕著なものを選<よ>って、病気以外の奇蹟を五〇例、病気に関したものを七〇例載せてあります。これは一般人には勿論、新しい信者の人などが読むにはもっとも適当しているわけです。それで病気の奇蹟だけは、一々私の説明を添えてありますから、よけい分かります。

 それから、来年になるだろうと思いますが、『医学革命の書』という本が出ます。これには私は心血をそそいで書いてます。もう三分の一ぐらいできて、あと三分の二をこれから書きますが、来年の春あたりに出版できるだろうと思ってます。その「序文」をいつか読んだことがありますが、どうも気に入らないので書き直して、今度やっとよいと思うような「序文」ができましたからいま読ませます。

 (御論文『医学革命の書』「序文」朗読)〔「著述篇」第一一巻一七八ー一八一頁〕

 それからちょっとおもしろい論文を書いてみました。

 (御論文「硝子製造人」朗読)〔「著述篇」第一一巻六八九ー六九一頁〕

 つまりいままでの文明というものは、全部と言いたいほど間に合わせものです。つまりイミテーションです。だから医学というものも、病気が治りそうに見えて治らないのです。それはイミテーションだからです。ダイヤモンドほどの硬度がないからガラスを切ることもできないし、切れそうに見えていて切れないというわけで、本当のダイヤモンドなら切れるのです。そういうようなもので、本物がなかったのです。それをお釈迦さんはちゃんと言ってます。「真如」ということを言ってますが、「真如」というのは、真理ではないので、真理の如くというのです。だからやっぱりダイヤモンドが真なら、ガラスで作ったものは真の如くです。うまい言葉をつけたと思います。仏教のほうで「実相真如」と言いますが、これは逆様<さかさま>なので、「真如実相」が本当なのです。つまり真の如きものが出て、それから後に実相が出るのです。仏教のほうではたいてい逆になってます。私が善言讃詞に「大千三千世界」ということを書いてますが、仏典のほうでは「三千大千世界」となってます。これはあべこべです。「大」という字は「一人」と書きますが、つまり「一人」とは「主」ですから、これが元です。それで「三千」というと「三界」です。現幽神、あるいは天地人で、三つに別けてあるわけです。最初は一で、それが三つに分かれるのが本当です。ですから三つのほうを上につけるということは間違いです。それで一は太陽で三は月、一は火で三は水ですから、大千三千世界というのが本当です。ですから私はそう書いたのです。ところがそれを見て質問したり疑問に思ったりするのです。この間信者でない人から手紙が来て、「大千三千世界」というのは間違っている、けしからん、ということを言ってきましたが、そういうようで、いままでのあらゆるものはみんなあべこべになっていたり、仮のものです。だからお釈迦さんは「仮の婆婆だ」と。いま読んだ中に「病」が生病老死の四苦の中にはいっていて、四苦だけはどうにもならないとお釈迦さんは言ったのです。ところがこれが解決され、しかも一〇〇歳以上生きるとすれば、どうにもならないほうには、入らないわけです。病気は勿論なくすることができるのです。これが「真如」ではできなかったが、「実相」ではできるのです。そういう意味を書いたものです。他の発明発見にも、人間に害を与えるほうが多かったのです。これは使う人の善悪にもよりますが、すばらしい発明だと言った原子爆弾が、あのとおり恐るべき殺人器です。そういうようなわけで、逆になっていたわけです。それの一番肝腎なのは人間の生命ですから、そこでこれを根本として一番主力をそそいでいるわけです。

 次もちょっとおもしろい論文です。

 (御論文「神と硝子玉」朗読)〔「著述篇」第一一巻五八九ー五九一頁〕

 いまのはやはり『医学革命の書』の中にはいる論文です。

 睾丸が落ちてしまって、それが元通り生えたというお蔭話がありましたが、その子供を呼んで一五日の午後から、ほうぼうの病院長とか博士が七人来て、最初に復活した子供の睾丸、陰茎の状態をよく見て、それからその感想を一人ひとり話をしたのです。それが実に苦しい話し方です。なぜならば分からないからです。そうかといって分からないと言っては、お医者さんも立場に困りますから、それを医学的に一つのこじつけをするのです。なにしろお医者さんの言うには、医学上睾丸を入れてある袋と、陰茎を包んでいる皮だけは脱落しても復活する、元通りになる。しかし陰茎と亀頭、睾丸のいったん取れたものは新生しないと言うのです。だからこれは腐ったようになって脱落したときに、陰茎の皮と睾丸の袋だけが脱落して、陰茎と睾丸は腹の中にはいっていた。それが、袋ができたので、腹の中に引っ込んでいたのが出てきたと言うのです。実に馬鹿馬鹿しいことです。結局お医者さんの意見は、みんなだいたいそれと大差ありません。医学では分からないと言ってしまえば、それで簡単にすむのです。ところが実際は、分からないと言えば、立場上具合が悪いし、おまけに宗教の前で分からないと言っては恥ですから、分かったらしくしているのですが、その言い方が苦しそうなのです。結局二、三人のお医者さんが、これは奇蹟だ、あり得べからざることだと言った人もありましたが、それを言う声がばかに小さいのです。ほとんど聞こえないくらいに言ってました。ですから一度は聞き損なったくらいですが、実におかしかったです。それで最後に私としての立場から言ったのです。あの人たちに説明しても分かるはずはないから、大所高所からズバリと、これは新生だ、あり得べからざることだ、だから奇蹟だ。それでこれを分かるまでに科学はまだ進歩していないのだ。結論として、いまの物性論というのはなぜ唱えたかというと、中間子、素粒子というのは細胞のまたごく微小なもので、それから物性というのはウイルスでもない、顕微鏡にもはいらないものだが、あるという推定です。だからこれは霊なのです。そこまでは言わないが、とにかく物性論にその奥がある。それからそのまた奥があり、その奥がある。そうしてそのごく窮極のものが科学で分かるようになれば、この「新生する」ということが分かる。だからいまは科学がそこまで行ってないということだけを言ったのです。そういうようで、医学でそういうことを説こうとか分かろうとするのは無理なのです。それを説明するだけに行ってないのです。またもしそれを説明できるまでに医学が行っていれば、医学を止<や>めてしまいます。そうしてやっぱり救世教のほうのやり方になってしまいます。だからこれは時節を待つよりしかたがないのです。それにはお医者始め一般人にも分からせなければならないということが、さっきから読んだ『医学革命の書』で、これをできるだけ世界的に読ませて本当のものを見せるというわけなのです。これも無論英文に訳して、米国のみでなくヨーロッパのほうにも、世界的に配ります。そうしてやっぱり実例を一〇〇つけて、その一つ一つの病気に対する批判も添えるつもりです。いま五〇ばかりできました。それでこれを一冊読めばおそらくどんな人でも分からないはずはない、というように徹底的に書くつもりです。しかしただ、いま言ったようなごく根本の深い所をあんまり強調すると宗教論になりますから、そう深い所まではゆきませんが、ただ実際的にいまの人が分かる程度に説くわけです。そうすれば結局世界的の問題にならないわけにはゆきません。神様もそういう経綸です。大本教のお筆先にうまいことを言ってます。「この事が分りたら世界は動くぞよ」とありますが、つまりいま言ったように世界中が動揺するというわけです。だからなにが大問題といったところで、人間から病気をなくし、寿命が一〇〇以上になるというこのくらい大きな問題はありません。結局それを目標に進んで行くのです。そして人間がやるのではなく、主神がやられるのですから、神様のほうから言えばわけないことなのです。しかしそれにはやはり順序があり、天地の律法、神様の法律があります。それを破るわけにはゆかないからして、やはりそうとうの手間がかかるわけです。いくら神様でも桜の花を冬咲かせたいと思っても、咲かせるわけにはゆきません。ちゃんとその季節に咲くように作ってあるのだから、それを壊すわけにはゆきません。太陽は何時何十分に出るというように決まっているのですから、それを一度でも狂わせることはできないので、それが法則です。御神業のことでも、よく未信者の人の言葉に「そんなに立派な医学なら、なぜドンドン知らせるようにやらないのだ」と言うが、それは人間がわがままでやるのなら一時的にドンドンやるでしょうが、神様のほうはそういう法則に外れたことはできないのです。しかし非常に早いのは早いです。神様の力がいかにすばらしいかということは、今度の『栄光』に出しますが、ハワイのお蔭話なども実にすばらしいものです。日本に負けないほどの奇蹟がドンドン出てきます。ロサンゼルスでもすばらしい奇蹟があって、この次あたりの『栄光』に出します。そうすると私が日本のここにいても、そこまで光が届いているわけなのです。つまり神様の力というものは遠い近いの差別はほとんどないくらいのものです。つまり時間空間を超越するというのが真理ですから、ちょうどこのことが空間を超越しているわけで、ほとんど隣と同じようなものです。時間も同じで、一瞬です。ですからいずれはアメリカ辺りの人もアフリカ辺りの人でも、お願いすればすぐに御利益があるというような具合になりますから、そこでどうしても世界中を救わなければならないのです。この間の手紙だけでロサンゼルスで教修者を作る人ができたようなわけですから、実に驚くべきものです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻」 昭和28年08月17日