教集25 昭和二十八年八月十六日(1)

 昨日、睾丸が落ちて後から元通りに生えたという子供を招<よ>んで、医学博士が七人、岡田道一さんの骨折りで来て、すっかり診察したのです。その前に私が見ましたが、どういうふうに生えたかよく見たところが、なにしろまだ元通りといったところで、やっぱりそうとうに引き吊りみたいな凸凹<でこぼこ>になって、後から生えたということがよく分かるようになってます。かえってあんまりきれいだと疑いが起こるが、あれなら無論後からできたということが分かります。それでお医者さんが見た結果、この部屋でいろいろな説明をしたのです。ところがなかなか説明ができないのです。実に気の毒なくらい苦しんでいました。それで博士が一人一人批判をしましたが、小便が止まったというのは、腎臓結石だとか膀胱がどうだとか、そういうことはなかなか詳しく話しましたが、さて落ちた睾丸と陰茎が後から生えたという説明にはとても骨が折れてました。それで結局二人ばかりの医者が、一人は睾丸は吊れて奥のほうに引っ込んでいた、一人のお医者さんは陰茎まで引っ込んでいたと言うのですが、それがなかなか苦しそうなのです。この問題の重点というのは「陰茎と睾丸が落ちて後からそれが新しくできた」要するに新生ということが重点ですが、どうもそこにゆくとはっきり言えないわけです。それで結局において「不思議だ、奇蹟だ」ということになったのですが、奇蹟だということを言うときには、ほとんど聞こえないような小さな声で言ってました。だからたぶんそう言ったのだろうと、私は推察したのです。もっともこれは医学的説明は無理なのです。だから「医学では分からない、実に奇蹟だ」と言えば簡単にすんでしまうのですが、それを言うことができないらしいので、そこになんとかかんとか理屈づけようとする、それが実によく分かるのです。それから教団の幹部の人との質問応答が二、三あり、最後に私がその説明というわけですが、説明して分かるはずはありません。これはなんでもないことで、霊主体従<れいしゅたいじゅう>の法則さえ分かればなんでもありません。それで私もかなり皮肉に言ってやりました。この問題の重点は睾丸と陰茎が落ちて、それが新生した。それでお医者さんのほうでは「なくなったものができるということは、睾丸を包んでいる袋が伸びることはあり得る」というのです。それから「陰茎の皮も新生するということはある」というのです。「けれども睾丸の玉と陰茎の棒、おまけに亀頭は新規にはできない」というわけなのです。「だから外にある程度皮などができる問、奥に引っ込んでいた」というのです。ところが中の棒、亀頭のほうがずっと伸びているのです。そうして皮のほうが足りないのです。だから私は聞いたのです。子供というのは皮のほうが長くて包んでますが、もっかあべこべなのです。だからそうとう皮肉に言ってやりましたが、結局私のほうから見ると新生だ、医者は新生ということはあり得べからざることだと言うが、あり得べからざることだから奇蹟というわけなのだ、私のほうではあり得べきことになっているのだから別に不思議ではない。しかしあり得べきことを、あり得べきことと言えないのは、科学がそこまで進歩していないからだ。それについて私はいま『医学革命の書』という本を書いているからして、それができたら、お送りするから見てもらいたいということを言っておきました。結局においてこの原理というものは、つまり湯川博士が唱えられている物性論というのは、中間子のことで、中間子からヒントを得たのです。そこで物性論というものは、つまりまだ目には見えないということを言われてますが、これは細胞の霊なのです。つまり黴菌の霊です。だからこの物性論がもういっそう進むと、科学はまた深い所に行くわけです。それからまた進み進みして、ごく深い所に行き、そこまで私は書くから、それを読めば、この子供の道具が新生したという原理は分かるから、というように話したのです。だからいま信じられない、つまり奇蹟だ、理屈がつかないということはちょうど「原子爆弾を発見する前にそれを説明しても、だれも本気にする人はない。しかし一つ落とせば一度に分かるようなものだ」と説明したのです。この睾丸について説明しても分かるはずがないから、いっそ、そういった大所高所から、根本的のことだけを言うより他にないのです。そういうような意味のことをちょっと話してやりましたが、後で聞いてみるとお医者さんも分かってはいるのでしょうが、分かったとは言わないのです。そこに傍聴に来ていた産業経済の記者などはよく分かったそうです。お医者さん以外の他の人たちはよく分かったらしいのです。お医者さんも分かったらしいのですが、分かったとは言いにくいので、分かったとは言わないのでしょうが、とにかくそういったお医者さんが、ここに来て私の話を聞くということだけでもたいしたものです。以前に私は「とにかくいまに大学の講堂に行って、少なくとも五、六十人の博士を集めて、その前で私が医学の講義をするようにならなければ駄目だ」ということを言ったことがありますが、昨日のは、その小さい最初の型だと思います。ですから非常に結構なことだと思ってます。結局お医者さんが分かるということが根本です。それからこういうふうにしておけば、これから思い切って医学のいろんなことを書いても、当局にしてもよほど見方が違うわけです。こっちによほど自信がないと、それだけのお医者さんを相手に、ここまで集めて、一つの奇蹟的の効果を検討させるということほできないので、その点十分昨日の収穫はあったわけです。そういうようなわけで、これからもいろんな奇蹟が出るでしょうが、とにかく進んでゆくわけです。

 二、三日前にハワイから来た通信によっても、ハワイのほうでもさかんに奇蹟が起こるのです。そのためにどこまでも非常な勢いで発展しています。今月の六日に樋口さんはロサンゼルスに立ちましたから、もう着いているだろうと思ってます。ロサンゼルスは、この間も話したとおり、去年の一〇月にあっちのほうの婦人で話を聞いて、自分が長い間病気にかかっているのをぜひ治りたいというようなわけで、それから教修を受けたいというのです。しかし日本に行くわけにもゆかず、まだ私のほうではあっちに行きませんから、なんとか方法がないかというので、御守りと御神書を送ってやったのです。ところが御守りをかけて御神書を読むようになって、自分の病気は間もなく治ったのです。それで人の病気も治せるというのでやったところが、とてもよく治るのです。それで今度樋口さんがあっちに行くについて教修を受けたいというのが一〇人以上できているのです。それが一カ月くらい前の状態ですから、もっとできているでしょう。ですからつまり教修も受けないで、ただ郵便だけでとにかく教修の希望者が十数人もできてしまったのです。そのできたということは、自分が浄霊すると非常によく治るからです。ですから神様くらい気のきいているやり方はないと思います。これなら世界中どこへでも信者を増やすことができます。わざわざ遠い所まで行かなくてもよいのです。結局世界中を救うとしても、そういった郵便でやれればなんでもないわけです。ハワイなどもそうです。近ごろになってほうぼうに支部がだいぶできてますが、それはハワイの人で非常に熱心な人ができて、次から次へと支部を作っているのです。無論浄霊もさかんにやってます。だから自然にハワイの人たちがだんだん固まりを大きくして行くわけです。それと最近たいへん立派な家が手にはいったのです。それは借りるのでなくて買うのですが、建築もそうとうで、かなり広いようですから、あっちの本部として当分はそれで間に合うと思います。そういうような具合で、予想以上の、神様のほうの経綸が進んでいるわけです。ですからアメリカに火がついたら、とてもハワイぐらいのことではありません。手紙の中にも(これは樋口さんの手紙でなく)今度十何人かの教修生をつくったという、郵便で教修生をつくった人の所に、ロサンゼルスの非常な金持ちの息子の病気を頼みたいということで、きっと樋口さんが行ってやるでしょうが、そういうようなことも書いてありました。だんだんおもしろくなってきます。

 美術館の話になりますが、アメリカの『シカゴ・トリビューン』という有名な新聞の東京支社の、『東京イヴニング・ニューズ』という新聞の八月七日付に出てますが、だいぶ大きな写真が出てます。柿右衛門<かきえもん>の壷と鎌倉の阿弥陀さんです。その記事を翻訳したのを読ませます。

 (『東京イヴニング・ニューズ』八月七日付掲載の記事朗読)

 今日はいろんな話がありますから簡単に話しておきますが、昨日京都で百何十人か水で死にましたが、みんな知っているでしょう。これでずいぶん不思議と思うことは、大正池という池ですから、湖水ではないからそう大きなものではないでしょう。それがちょっと大雨が降って、わずかの間にとにかく家が二〇〇軒か流され、百何十人か死に、行方不明が二〇〇人かありますが、行方不明というのはたいてい駄目ですから、三〇〇人というのが瞬<またた>く間に流されてます。他にもその付近でちょいちょいありましたが、こういうことはちょっと珍しいことです。京都府下で、ちょっとの間にそういう水で死ぬということは、これはやはり九州も和歌山もそうですが、わずかの問にこう頻繁にあるということは、いかに浄化作用が激しくなってきたかということの現われです。この浄化作用は汚れた所を洗うわけです。その一番汚れたということは肥料で土を汚すということですが、これはどうしても水で洗わなければしようがないからです。そういうわけで、今年あたりの米の不作はたいへんなものだと思います。水のための不作もそうとうですし、それから虫害が今年はまたベラボウに多いです。それに引き替え自然栽培のほうは、またばかに成績がよいそうです。こういうことで良い悪いがはっきり区別がつくわけです。まだまだこの浄化はごく序の口であって、これから時がたつに従ってだんだんものすごくなってきます。それで人間がどうしても分かって、もうカブトをぬぎ往生するというところまで浄化が起こるのです。それで結局どうにもならなくなって神様に頭を下げるということは、救世教信者になるわけです。そうならなければしようがなくなります。神様はジリジリとそういうようになさるわけです。ですからあんがいなことや予想外のことがだんだん出てくることと、だんだん大きくなってきますから、実にかわいそうでもあるし、良くなるのですから気持ちのよいことでもあり、いろいろありますが、こっちのほうは洗われるほうではなくて、洗うほうになりますから、気楽なものです。

 ちょっとおもしろいことを書いたので読ませます。

 (御論文「神と硝子玉」朗読)〔「著述篇」第一一巻五八九ー五九一頁〕

 これもさっき話した『医学革命の書』の中にはいる論文の一つになりますが、あらゆる角度から科学の根本をすっかりほじくり出して、遺憾なく、分かるようにするつもりです。いま読んだとおり結局いまの医学は顕微鏡というガラス玉なのですから、それで黴菌を探し出して、それで進歩したと言ってありがたがっているのですから、実に子供だましにもあたりません。それで今年はいままでで日本脳炎が去年の一〇倍だというのです。ところが一年おきに流行しているということになっているので、今年は流行しない年になっているのですが、流行しない年が流行する年の一〇倍だから、なにがなんだか分からないことになります。今度は一年おきのことをあべこべにしなければならないことになります。それほど浄化が強くなっているのです。それでいまもって蚊の媒介などと言ってますが、蚊の媒介という説はどこから出たかというと、日本脳炎というくらいですから、西洋にはないので、日本だけにあるのです。ところが西洋では設備をよくしてあるから蚊や蝿がいないのです。それで日本はいまもってブンブンと、それこそ夏、場末にでも行くとたいへんなものです。私も昔は蚊の一番多い所にいましたが、夕方に家にはいろうとすると顔にぶつかる蚊がたいへんなものです。そういうようで日本には蚊が多いから、蚊の媒介と狙いをつけたわけです。それなら蚊の多い所ほど日本脳炎が出そうなものだが、そうではないので、蚊の少ない所でも同じように出るのですから、いい加減なものです。これはいつも言うとおり、頭を天日<てんぴ>で照らすために後頭部に毒素が集中するわけです。その毒素というのは背中の毒が多いです。人間は背中のほうがずっと毒が多いのです。なぜ背中に毒が多いかというと、人間はうつぶせに寝る人はないので仰向きに寝るから、背中に溜まるのです。それで背中一面から肩にある毒素が、頭を照らされるので、上がってくるのです。それで人間の体はうまくできているので、後頭部まで来ると外に出されることになっているのです。それで後頭部から頭脳を通過して目脂<めやに>や洟<はな>になって出るのです。それで出る場合には必ず血が混じっているのです。それはここの毒血が出るのです。これが出るだけ出れば治ってしまうのです。それを氷で冷やし、いろいろして出さないようにするから、ここに固まりができてしまうのです。治ってから馬鹿になるとか、首が自由にならないとか、手が痺れてしまうというわけです。それは固めるからで、ほったらかしておけばあんなものは治るに決まってます。それが日本脳炎ですから、こういう結構なものはありません。日本脳炎をやれば、この辺の毒はよほど減ります。それが分かればなんでもありません。それが分からないために大騒ぎをやっていまは血清注射などを試験的にやってますが、本当の泥縄です。もっと早いうちにやっておけばよいが、流行してから血清(ワクチン)をいろいろやっているのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p31」 昭和28年08月16日