教集25 昭和二十八年八月七日(2)

 美術品についても、このごろつくづく思われてきたことは、学者の鑑定はどうもいけないです。ですから私はこのごろ学者の言うことは否定することがよくあります。いま来ている宋時代の赤絵の壷ですが、「これはもと白い壷で、日本で絵をつけた」というのが学者の説で、陶器のほうでは小山冨士夫という一番有名な人の説では、後絵<あとえ>といって明治時代に絵を画いたというのです。そのためにわざわざ注意に来てくれた人があります。これはそういうことは決してないのです。私は六感で言うのですが、ではなぜそういう説を言うかというと、いままでの宋時代のものにはそういう物がないのです。学者が研究してもそういう物はないから、これは宋の赤絵ではないと言うのです。ですから学者の言うことはいつも困ることがあります。ある作者なら作者がこしらえると、この作者はこれとこれと、こういうように作ったというように説を立てるのです。ところが画家にしろ工芸家でも、自分がずっとやっていて、これはおもしろくない、こうしたほうがよいと思えば、グッと変えることがあります。それをいくども変える人もあります。それを変えると、学者のほうではこれは違うと言うのです。一つの物でなければいけないのです。よくそういうことがあります。例えばいま美術館に出ている又兵衛の「山中常盤<やまなかときわ>」ですが、これがいまもって作者が決まらないのです。又兵衛の物であるという説と又兵衛の物でないという説がいまもって決まらないのです。決定すれば、あれは重美か国宝になる物ですが、そのためにならないのです。これは又兵衛の落款がはいってないせいもあります。ところが巻物には作者は多く落款を入れなかったのです。それは巻物は本当の絵としては位が下がることになるのです。掛物が本当の絵ということになるのです。それはそうでしょう、掛物は掛けて楽しむので、巻物は拡げなければならないからです。それと、他の又兵衛のは、別館にもありますが、線が細くて柔らかく上品で垢抜けて画いてあるのです。ところが山中常盤の巻物のほうは非常に油ぎって強く、活気凛々<りんりん>としているのです。だから又兵衛ではないというのです。ところが私の鑑定では山中常盤のほうは若い時分に画いた物で、掛物のほうは年をとってから画いたのです。そこで違うのです。それでいまはどういう説になっているかというと、「山中常盤は又兵衛ではない、しかし又兵衛と同じくらいの腕がある名人がその時代にいたのだ」という説が一番多いのです。私は藤懸博士かだれかに親しく聞きましたが、しかし又兵衛と同じような腕のある画家がいたとしたら、有名になっていなければならないのです。しかし無名ですから、そんなはずはありません。それが分からないのです。そういうことがたくさんあります。いろんな研究をしてますが、そうかと思うと光琳の琳派物ですが、これが始終問題が起こってます。宗達の有名な物に関屋<せきや>の屏風というのがあって、去年私の所に来たのです。それは実によくできていますが、私はどうも納得ができないので、借りて三、四回見たのですが、だんだんアラが見えてきたので返してしまったのです。それを安田靫彦先生がすばらしいとたいへんに褒めたのです。また他の画家も鑑定家も褒めるのです。ところがあれは駄目だと指摘したのは私一人です。そしてある弁護士がすぐに買いました。ところがそういった方面の評判では、とにかくあれはみんなが良いと言うのに、箱根の美術館長だけが「あれはいけない」ということを言っているというので、ひとしきりずいぶんガヤガヤしたものです。そうするとだんだん「いけない」という私のほうの組が増えてきて、いまちょうど半々になっているのです。それでこの間藤懸博士と熱海で、こっちに来る前に議論したことがありますが、あれは立派な物だと言うから、駄目だと言ったら、どこが駄目だと言うから、三、四カ所、これとこれとこれが駄目だと言ったら、「フーン」と黙ってしまいました。そういうようで、これはなにごとにもそうで、医学でも農業でも、学者の説はそういうようなものです。

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「『御教え集』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻」 昭和28年08月07日