教集25 昭和二十八年八月六日(3)

 これは去年の一〇月に、ロサンゼルスの女の人で、やはり病気で治りたいのと、信仰にはいりたいというので手紙が来たのです。それでこっちも、教修を受けさせることはできないため、手紙と御守りと出版物若干を送ってやったのです。その御守りをかけて、御神書を読んだりして、だいぶ分かったとみえまして、それから自分の病気が治るし、それから人を浄霊しても治るのです。その結果なかなかおもしろいことになったのです。

 (「米国通信」(五)朗読)

 それでまたおもしろいのは、樋口さんが今月の四、五日ごろロサンゼルスに行く予定になってましたから、ちょうどここに足がかりができたわけです。神様のやられることは実に行き届いたものです。つまりこのためにここを根拠として仕事ができるわけです。それが、こっちの信者が行ってそういう具合に準備したわけではなくて、手紙だけで、教修も受けないで、そうしてこれだけの仕事ができたということは、実にすばらしいものだと思ってます。大本教のお筆先に「神様の事は遅れただけは一度になるぞよ」ということがあります。だからして、やっぱりちょうどよいときと、遅れるときも、神様の時期は伸縮自在なのです。これもお筆先に「何事も遅し早しはあるなれど、これも神様の都合のことじゃ」ということがあります。つまり遅い早い、遅れたり早かったりはあるのです。しかし決まる時期はチャンと決まっているのです。何年何月何日までにこの仕事、次はこうということは決まっているのです。その間の進んだり遅れたりはいくらかあるわけです。ですからよくそのときに考え違いをすることがあります。ちょっと後戻りするように見えることがありますが、行くときになるとスーッと早く行くのです。尺進寸退というわけですから、それを心得ていなければいけないわけです。従ってアメリカなども、つまり遅れているに違いないですから、それだけ早いです。ハワイなどは勿論そうです。私は去年でしたか、アメリカのどこが根拠地になるかという話が出て、ロサンゼルスだと言ったのですが、そのときにはロサンゼルスにはなにもなかったが、やっぱりロサンゼルスになりました。それからまたちょうど二年くらい前でしたが、ハワイの仕事は樋口さんと決めたのですが、そのときはそのような様子がないのです。つまり神様はそういうような事情をつくってゆきますが、そういうことは少しもないのです。ところが一年以上たってから、いろんな順序がついてきて、やっぱり樋口さんが行くような順序になりました。つまり神様のほうはそのときに決まったのです。それが一年以上遅れたのです。そこでその取り返しのために早くなるわけです。そういうことをよく見ると実によく分かります。それからもう一つ考えられることは、これからだんだん世界的に発展するに違いないから、一々先方が日本に来るのもたいへんですし、また辺鄙<へんぴ>な所に行って教修を受けるということも、なかなかたいへんですから、このように手紙ですんでゆくと、非常に簡単で楽に発展することができるわけです。私はこれがたいへんおもしろいだろうと思ってます。その見本としてこの人がこうしたわけです。つまり神様は臨機応変、自由無碍です。これが実によく現われているのです。いろいろなややこしいことも、抜く場合には抜く、それから決めなければならないときには決めるという、自由自在の点が、実におもしろいと思います。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p15~16」 昭和28年08月06日