『御垂示録』二十三号 昭和二十八年八月一日(13)

〔 質問者 〕想念の問題ですが、御守りをいただけば、みないちように効果が同じだという考えを持っている信者が多いのですが、そこにレントゲンの光が御守りを通ったり通らなかったりするときに疑問があるということになりますが。

【 明主様 】ところが想念の問題はこうだと思うと窮屈になるのです。だからそれは自分みずからわく気持ちでよいのです。だからその人がたいして思ってない、あるいはありがたくてありがたくてしようがないという、それでよいのです。感謝です。

 

〔 質問者 〕講演会で千篇一律<せんぺんいちりつ>だと話しますと、想念の――感謝ということを説く道がなくなりますが、そこで想念の並行という点を説くと。

【 明主様 】それは説かなければよいです。しかし想念がなければ御利益がないというと、それは強制されたもので、想念でないのです。想念というのはわき起るものです。だから千篇一律と思っても、自分だけはどうしてもそう思えないという、それが本当の想念で、これが大乗的なものです。想念を説くのもよいのですが、それも時と質問によってです。ですから私はふだんは言いません。さっきの質問によって、そう言わなければならないからそう言ったのです。

 

〔 質問者 〕御守りをいただくことによって想念が浄められてゆくということは。

【 明主様 】御守りをいただけば想念が浄まることも事実であり、また想念のいかんによってますますお蔭をこうむることも事実で、一方的には決められないものです。これは真理ですから、真理は決めれないものです。

 

〔 質問者 〕木原さんが言わんとしているのは、木原さんは御守り中心主義ですから、御守りをいただいた以上、想念によってお光の威力に増減はないというのです。

 

〔 質問者 〕私は根本原則を言い、松井さんは想念によってと言うのです。
 

【 明主様 】ですからどっちも合っているのです。

 

〔 質問者 〕結局身魂が浄まって上がって行くほど、光は強くなって行くというわけでございますので。

【 明主様 】そうです。だからそこで決められないというのはそこです。理屈は両方にあるのです。ちょうど十の字です、緯<よこ>のほうは緯ばかり言っていて、経<たて>のほうは経ばかり言ってます。ところがやっぱり真ん中に行くのですから同じです。

 

〔 質問者 〕ですから木原さんと私と合わせて一本というわけですか。

【 明主様 】まあ、そうも言えます。

 

〔 質問者 〕だいたい信仰が深いからお蔭をいただいたというのは、実はそうではなくて、神様のお蔭をいただけたから信仰が深くなるということでございますから。

 

〔 質問者 〕信ずるから治る、信じないから治らないというのではございませんから。

【 明主様 】いや、信じなくても治ります。ところが神様のほうは、信仰にはいらないうちは信じなくても治るわけです。ところがだいたい分かってきても信じないと、そこにちょっとくい違いがあるのです。

 

〔 質問者 〕私はこう言うのです。同じ御浄霊をお受けしても、その人が本当にありがたいというときと、馬鹿にしているときとはおのずとお蔭をいただく程度に差があるというのです。

【 明主様 】ところがいちがいにいかないので、なにも知らない人は最初は、こんなことで治るものかということは、それはそれで理屈に合っているのです。それから奇蹟を見せて、なお疑うということは、人間のほうが間違っています。だからそこにおいて結果に違いが出てきます。だから再浄化というのは、やっぱりそういうわけです。いったん治ったのですから、そうすれば絶対だから、これはたいしたものだと思えばよいのですが、治ってもまだグズグズしているから、そこで正守護神が怒ってしまうのです。そこでもう一度苦しめてやろうということになるのです。

 

〔 質問者 〕お光をいただき病気が治りながら、想念が感謝を伴っていないというときに再浄化の可能が多くなるわけで。

【 明主様 】そうです。神様のほうは寸分違わないので、理屈に合っているのです。それでいま言う屋根に上がって樋を直すということは立派なものですから、そのくらいで神様がけしからんと言うわけがありません。もしそうなら神様くらい気のきかないのはないということになります。神様はそのくらいお許しになるのが本当だと思うのが本当ですが、それを御無礼になると考えるのは、神様は「樋を直すのが本当なのだから、オレをそんなに見ているのか」となります。そこに神様と人間のほうとの考えが違うのです。

「『御垂示録』二十三号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p192~p」 昭和28年08月01日