『御垂示録』二十三号 昭和二十八年八月一日(12)

〔 質問者 〕自分のまわりの者、たとえば親子、兄弟、知人という自分に関連のある人が罪のために悩んでいる場合に、神様にお詫びして、その罪をつぐなわせていただくということは、お願いできるものでございましょうか。

【 明主様 】できますが、本当ではありません。それは他の宗教はそれでよいが、救世教はちょっと違います。そういう贖罪的のことはありません。ですからある場合に、それはないことはないが、だいたいはないとみてよいのです。つまり贖罪をしたら人を救えないのです。それが三人や五人ならよいですが、一人で一〇〇人も二〇〇人もの贖罪をしていては、その人は活動ができません。だからキリストのように全人類の贖罪をしたために命がなくなったのです。これは月の神様の系統は贖罪をするのですが、私のほうは火の系統の神様ですから贖罪はないのです。月のほうは洗うのですから、ちょうど洗濯の水が汚れるようなものです。ところが火のほうは焼いてしまうのですから、むしろ灰が出るのです。かえって火力が強くなるのです。

「『御垂示録』二十三号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p191~p192」 昭和28年08月01日