いつも言っていることですが、新宗教に対しての「科学的でない」ということについてですが、この間の子供の睾丸ができたことなどは、たいへんな奇蹟ですから、世界の医学界に知らせたいのです。あれを知らせないということは非常に惜しいのです。医学のほうでは、心臓の手術ができたとか、われわれから見ればつまらない、へみたいなことを、たいしたもののように新聞などにデカデカと書いてます。だからこっちの、それの一〇〇倍にもあたる奇蹟を新聞に出したらよいだろうと思って、『毎日』『読売』にも言ったのです。『毎日』ではいろいろ協議したそうですが、まだ出ないところをみると結局出さないように決まったのでしょう。それで本人を調査に行くとか言ってましたが、それもやらなかったようです。ところで新聞のほうには(法規的ではないのでしょうが)一つの不文律のようなものがあるのです。それは日刊新聞、ふつう新聞では宗教の宣伝にわたるようなことは書かないということになっているのです。このことは前から聞いてますが、おそらくそのためだろうと思います。結局救世教の宣伝になるからというのです。しかし宗教の宣伝になるとかならないとか言うが、この間の奇蹟というのはそんなチッポケなことではありません。それこそ医学的どころでなく、世界的の大問題になるべきことです。子供の睾丸から陰茎がすっかり取れてしまったのが、自然に生えて元どおりに育ったのですから、人類始まって以来の奇蹟ですが、要するに宗教宣伝になるというために出さないのでしょう。そうすると文明というものは、宗教とか科学とか言って一つの城廓をつくって、その中に閉じ籠もって、敵視しているようです。新聞社のほうは科学の城廓に閉じ籠もって、宗教という敵の利益になるようなことは絶対にやらないことになるからして、考えてみるとおかしな話です。けれどもそれもあながち全面的にケシカランとは言えません。というのは、宗教そのものが実に科学以下のものがたくさんあります。だから科学のほうで軽蔑して、かえって宗教よりも以上の科学を微力なようなことを言ったりすることはけしからんと言うのです。要するに科学も宗教であって、ただ形が違うだけです。ですから自分のほうの科学宗教を守らんがために(科学といっても唯物科学ですから)唯物科学の城廓を固守し、唯心科学のほうを葬ろうとしたり、それから軽蔑して、それに乗るなということを警告するというので、この間のラジオはそれなのです。ところが本当から言うと唯物科学も宗教もないので、あらゆるものを冷静に批判して、良いものをとって悪いものを捨てるというのが本当ですが、まだ人間の頭脳がそこまで行ってないのです。まだ小乗的文化の殻に閉じ籠もって、そうしてアップアップやっているのですから、われわれからみれば実にかわいそうなくらいです。
「『御教え集』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第十巻」 昭和28年07月25日