教集24 昭和二十八年七月十五日(1)

 『医学革命の書』の中に入れる論文ですが、これは非常に科学的に説いたのです。いまの科学、特に医学の考え方は非常に幼稚なものでお話にならないくらいです。よく「科学的、科学的」と言いますが、いまの医学は科学としてはごく手前のものです。これを分かりやすく急所だけを書いたので読ませます。

(御論文『医学革命の書』「科学で病気は治らない」朗読)〔「著述篇」第一一巻二〇六-二一〇頁〕

 この後「神霊の解剖」というのを書くつもりです。つまり神様を解剖するわけで、ずいぶん変わったことですが、神様を解剖するなどというと、いままでの人は恐ろしくて罰が当たってはたいへんだと、そういうものに触れる人はないのです。けれどもそこまで分からなければ信仰の真髄は本当に分かるわけがありません。神様というと、ただ漠然としてありがたいような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れることはならないように思われてきたのです。というのは、いままで神様を本当に分かっていた人はなかったのです。つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分かっていなかったらしいのです。神様が分からないと、病気、人間の生命力ということが分からないわけです。なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分からなければ生命に関したことも分からないわけです。ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面の所だけしか説くことができなかったのです。ですから見真実といっても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分からなかったというよりか、分からせなかったのです。分からせてはいけなかったのです。ところが今度は分からせなければいけなくなったわけです。そこで私は知らされたわけです。ですからいま読んだとおり医学の考え方は、黴菌というものは、顕微鏡の現在の見得る程度は二〇万倍というわけですから、二〇万倍で分かっただけの黴菌を対照として研究しているわけです。ところが顕微鏡が一〇〇万倍になっても一〇〇〇万倍になっても、まだ徹底したわけではないのです。それ以上まだ小さいのがあるのです。私が前にも言ったとおり「いまある黴菌というのは粗いものだ」と言うのはそういう意味で、細かい点においてはどこまであるか、ほとんど無限です。一〇〇〇万倍、一億万倍になっても、もっと細かいのです。細かいということは無限ということで、つまり数字で現わすことはできません。それが黴菌の本体なのです。だからいまの科学というのは実に浅い、浅薄なものです。これで病気を治そうと思っても、治るわけがないのはあたりまえです。それをよく分からせるということが根本なのです。それでその無限の小さいそれを浄霊で殺すというのですが、これ(掌)から出る光が無限の細かいものであって、とうてい数字で表わすことはできません。そういうわけですから、宇宙というものはすべて無限なのです。「至大無外、至小無内」というわけで、ちょうど大空に壁がないようなものです。ですから宇宙というものはどのくらい広いものか分からないので、とうてい数字で表わすことはできません。大空の広さが無限であるのと同じように、小さいものがまた無限なのです。ですから黴菌と言っても、病原菌の小ささというものは無限なのです。それを分からせるためにいま書いたのです。その小さいものが無限であるとしたら、やはり無限な力でなければ病気を治すことはできません。そこで霊主体従の法則によって、ここならここの病気が治るということは、この細胞というものがまた無限なので、どのくらい細かいか分かりません。ですから医学のほうでは、細胞の数は何万、何千万と言ってますが、これは滑稽なのです。細胞一つを作っている細胞がまた何万、何千万あるか分からないくらいで、そのまた一つがそれと同じようにどのくらいあるか分かりません。ですからすべて一切は無限なのです。その無限であるために分からないので、その分からないところに本当はおもしろさがあるのです。よく地球の年齢ということを学者が研究してますが、これは無限ということを知らないからです。地球の寿命というものがまた無限なのです。ですから人間でも、いくども生まれ変わり死に変わり行くのですから、人間の寿命というのは何万年か何千万年か分かりません。霊のほうは永久なのですから、早死にを恐れることはありません。ただそれが人間の心に記録されてないから、新しく生まれて新しく死ぬように思うので、心細い感じがするのです。そういうふうに考えると、まったく医学の研究などというのは実に気の毒なものです。これを仏教などでは大づかみには説いてあります。「一切無だ」と言いますが、一切無だということは無限という意味を表わしたわけです。なぜと言えば、「有る」ということは言えないわけです。つまり「有る」ということは唯物的の観念です。「無」というと唯物的ではないということを表わしているわけです。その意味が分かればよいわけです。ここ(掌)から出る霊光も粒子なのです。粒子ということは無限的粒子です。それでこれが殺菌法です。殺菌というのは、霊の曇りがつまり毒ですから、その毒を火素で焼いてしまうというので、それが肉体にもすぐ写るのです。つまり霊主体従で、そのままに物質のほうも従うというそれで病気は治るわけです。これが真理なのですから、治るのがあたりまえなのです。だからこれが分かりさえすれば医学者というのはいま言ったとおり幼稚園の生徒です。本当はもっとひどいのですが、言いようがないので「幼稚園の生徒が大学の講義を聞くような」と言うのですが、本当はもっと離れているのです。

「『御教え集』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p22」 昭和28年07月15日