なにごとでもそうですが、まず急所です。浄霊の場合でも急所を発見することです。急所を発見するということは、いま言ったようなことをだいたい知っていると急所が非常に分かりやすいわけです。自分で自分の健康診断をする場合にも、体中を触ってみて熱のある所に毒素があるのだから、触ってみてずっと冷たければよいですが、どこかに熱がありますから、そこが急所です。それから押してみて必ず痛い所があります。人によってはまるっきり痛くない人がありますが、これはなにかというと毒がなくて痛くない人はまずないでしょうが、毒が固まりきって少しも浄化が起ってないのです。それで痛いということは、固まりにいくらか浄化が起っているから痛むのですが、浄化がぜんぜん起ってないと痛まないのです。ですからこういうのはかえって危ないのです。そういうのはかえって信仰にはいると、痛みのない人が痛みが出てきますが、これはそこだけが活動を始めたのです。しかしそういう人はごく少ないので、たいていな人はどこか痛いのです。そういう所を自分で浄霊するなり、後の所は人にやってもらうなりすると、それは健康になります。それで自分で浄霊するにも一番は肩ですが、肩で固い所がありますからそこをやればよいです。そうしてごく小さい固まりがあることがありますが、それを浄霊するには、指から霊を出すのです。これはいつも言うとおり触ってはいけません。二本の指でこうやって、中指から霊を出すようにするとよいです。この指から出る霊は強いですから、小さい固まりはよく溶けます。そういうようでなんでも急所です。ところがこの急所を外れていることが多いのです。これは病気ばかりではないので、日常のことや話や、いろんなこと、また宣伝の具合でも、人が「信仰にはいろうか、どうしようか」と迷っているときに急所をピタッと言えば、「では、はいろう」ということになりますが、その急所を見つけるのがなかなか難しいのです。しかしその人の智慧正覚が進むと、急所の発見が早くなります。どんなことでもその急所をやることです。それから急所が見つからないときに、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですからふだん心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見つかるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないというときに、ちょっと急所に来ると冷めることがあります。これはあなた方でも経験することがあるでしょうが、急所を発見するということが、人間人生の最大の条件です。ですからいまの政治、経済、外交ということも急所を外れているために、ずいぶん間抜けなことをやっているわけです。私はよく新聞ラジオで聞いてますが、政治家が大勢で毎日いろんなことを会議したりしてますが、急所を外れてます。とにかく偉い人たちが大勢寄って相談してますが、急所の他のことを相談しているのです。ですからよい案が出ないのです。というのは頭が悪いわけではないので、頭は良いのですが、ただその頭も外側が良いのです。中身が悪いので、外側ばかりをいろいろ論議して、中身を論議する人はないのです。やっぱりQ<ス>のポチが分からないのです。ですから人間は急所の発見ができるような頭を作ることです。信仰もその修行です。救世教というものはQ<ス>ですから、いままではみんなこれが分からなかったのを、これを分かりこれを主にして救うということが根本なのですから、そういった頭で物事をみたり、いろいろやったりするとすばらしいものです。これはなかなか難しいですが、せめて急所に近い所がすぐ分かるようになれば結構です。
「『御教え集』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第十巻」 昭和28年07月05日