昭和二十八年 七月一日 垂録22 (2)

〔 質問者 〕N・S(六一歳)。二七年人事不省となり、一ヵ月後に快復いたしましたが意識朦朧とし、食事進まず、痙攣の発作があります。

【 明主様 】中気が起ったのでしょう。ふつうの中気です。現在はどうですか。

 

〔 質問者 〕浄霊すると天帝が冷たくなり、全身が熱いといって、一日に三升くらいの水を飲み、小便は小量ずつ一時間に三回くらいで、膿のように白い尿が出ております。ときどき霊が憑ったように左のほうを向き「お客様が来る」と言うそうです。若いとき肺病、淋病をしたそうでございます。吐く息がくさく、また体臭もくさくございます。

【 明主様 】信仰にはいったのはいつですか。

 

〔 質問者 〕二〇年に入信、二三年に大光明如来様を御奉斎いたしております。

【 明主様 】所はどこですか。

 

〔 質問者 〕名古屋でございます。

【 明主様 】これはよほどメグリがあります。どういうことで信仰にはいったのですか。

 

〔 質問者 〕娘が肺浸潤でございました。

【 明主様 】お蔭があったのですか。

 

〔 質問者 〕いったんよくなりましたが、死亡いたしました。

【 明主様 】なぜ信仰にはいったのですか。治らないうちに信仰にはいったのでしょう。それは信仰にはいると治ると思って信仰にはいったのですか。

 

〔 質問者 〕さようでございます。

【 明主様 】信仰にはいってから死んだ人がありますか。

 

〔 質問者 〕二二年に長女が、二三年に次女が死亡いたしました。

【 明主様 】その人を信仰に入れたのはだれですか。

 

〔 質問者 〕T先生でございます。

【 明主様 】信仰にはいってからそうとう手柄がありましたか。つまり他の人を導くとか、そういうことはありましたか。信者を作りましたか。

 

〔 質問者 〕ただいまでは七、八十名になります。

【 明主様 】それはあなたがですか。あなたは支部長ですか。

 

〔 質問者 〕教師でございます。

【 明主様 】あなたは本人の奥さんですか。これはふつうの中風ではなく、霊的がからんでます。名前が悪い、というよりか良過ぎます。最初起ったときといまは同じですか、少し良くなってますか。

 

〔 質問者 〕少し良くなっております。

【 明主様 】どこか見当が違っているのでしょう。手はどっちがブラッとしてますか。

 

〔 質問者 〕手はブラッとしておりません。

【 明主様 】では中風ではありません。龍神です。ここ(延髄)に固まりがあります。それで血管が圧迫されて頭が貧血しているのです。そこを浄霊したら治るはずです。溶け方が足りないのです。力がはいるのではないですか。力がはいると治らないから、力はできるだけ抜かなければいけません。つまり脳に行く血管が圧迫されて貧血しているのです。そこに、この人にいる霊が上がるのです。そうすると意識が不明になって、トチるのです。ここに一番固い所で骨みたいなものがありますから、そこを向こうまで通すような気持ちで浄霊するのです。肩は張ってますか。

 

〔 質問者 〕たいして張っておりません。

【 明主様 】もっともここの割に肩は張ってない人もあります。ここがそうとう溶けさえすれば治ります。その溶け方が悪いのです。何病気でもそうですが、浄霊の霊力の強い弱いによって治る治らないということがあります。その霊力というのは力を抜くほど強くなるのです。ですから力を抜くことが大事です。本当に力が抜けるようになったらたいしたものです。あとはその人の信仰の深さによって霊力が強くなります。ということは智慧証覚が根本です。それから一つ注意しておくことは、慢心すると霊力はずっと少なくなります。だから信仰にはいりたてで「自分なんかに、そんな、できやしない」とビクビクしているときには割に治るのです。「もうオレはできてきた」と思うようになると治りません。それはなぜかというと慢心だからです。だからオッカナビックリの気持ちでやると治るのです。そうかといってビクビクしてやるのがよいわけではないので、つまり大いに神様の道具にならせていただいたという謙遜です。気持ちは、相手の病人は虫ケラほどでもないが、ごくつまらない人だというように思わなくてはならないのです。これは偉い人だと思うと、こっちの霊力が負けてしまいます。救世教は他の宗教から見るとまるで桁が違っているのです。その力をいただいているとしたら、世の中の人間は虫ケラのようなものです。しかしそれを出してはいけません。こっちは大いに謙遜しているのです。そこが難しいといえば難しいです。譬えて言えば、よく私などは世の中のちょっと偉い人などと話をして感心して聞いてますが、腹の中では信じてないのです。それで相手はすっかり私を信用させてしまったと思って、それから自分の計画などを持ってくるのです。それでこっちはそれに乗るような格好をしていて、最後の九分九厘に行ったときにスルッと抜けてしまうのです。そういうやり方が一番よいです。そういう場合に先方は、明主様はすっかり自分の言うとおりになったから、これは下にいるまわりの者が自分に対して悪意を持っている、というように思いますが、それでよいのです。ですから食えない人間にならなければなりません。よく食えない人間というと悪い奴のようです。しかし事実悪い奴は食えないですが、しかし善人で食えない人間にならなければ駄目です。よく「酢でもコンニャクでも食えない」と言うが、そういうようにならなければなりません。悪人は善人を手玉にとると言うが、私は悪人を手玉にとります。だから悪い奴を利用するし、また悪人でも大いに役に立つことがあります。悪い人間で教団のためになった者はたくさんあります。ですからよく「あれは評判が悪い」と言いますが、そういうことはなにも思わず、挨拶するときは挨拶してますが、それで結構よい手柄をしてます。つまりこっちに来るという人間は神様が必要があってよこすのだから、人間的判断をしたらたいへんな間違いです。だからよく「あの人は評判が悪い、油断ができない、おもしろくない、そういう人間は教会に入れないようにしなければいけない」と言うが、そうではないのです。そういう人間だからこそ、その人間を立派にするのが本当で、それには宗教の力が必要です。東京のあるキリスト教会で、「少しでも間違った人は教会に入れない、純真な人を選って教会に入れるということになっている」と、そこの牧師からそういう話を聞いたので、私は「そういう立派な人間なら教会に入れる必要はないではないか。悪いのを立派な人間にするのが宗教の仕事ではないか」と言うと、「それは本当の理屈だが、私のほうはそうなっているのでしょうがない」と言ってましたが、それはたいへん間違ってます。いままでの悪人が跋扈<ばっこ>したひどい世の中では、悪人もやっぱり一つの道具としてあるのです。それから中にはオワイ屋ゴミ掃除みたいな人間も社会には必要なのです。ですからそういうのを嫌っているのはしようがありません。「悪は悪をもって制する」ということがありまして、警察とか裁判官というのはずいぶん悪いです。悪人以上のようなのがいますが、しかしやっぱりそれも悪人をやっつけるにはそのくらいでなければ駄目だと思います。ですから必要悪です。信仰も大乗信仰と、小乗と中乗があります。この使い別けがなかなか難しいのです。

「『御垂示録』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p149~p154」 昭和28年07月01日