昭和二十八年 七月一日 垂録22 (17)

〔 質問者 〕一般に無神論者といわれている中にも、先祖祀りということはしている所はありますが、どうもお蔭をいただけません。そういう人たちをこのお道にお導きする方法を御教えお願い申し上げます。

【 明主様 】別に方法というのはありません。なぜかというと、導くということは導かれるというそういう人が機会を与えられた場合に、話を聞くとか、こっちの新聞を見ればそれでよいのです。あとは心配しなくてもよいのです。なぜといって人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、いくら言っても駄目です。その時期というのは非常に神秘なもので難しいものです。例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。そこで救世教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人はいまはちょっと言えませんが、大枝のほうでしょう。大枝が救われて小枝が救われて行くのです。それをほったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。だから分からないのはまだ時期が来ないのです。だからスラスラ行くのは時期が来たなと分かるし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。ですから滅びる人はいくらやっても駄目です。だからさっきの「食道が悪くて、噴門からどうとかする」というのは、もう救われない側になっているのです。救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。それは別に難しいことはないので、見分ければよいのです。この人は救われるか、あるいはもう駄目な人かということはすぐ分かりますから、どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。それから楽に行かないのは救われないほうです。この間の論文に書いてありますが、救われない人がずっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。最初はだれでも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人のほうが疎かになり、それがたいへんな間違いです。そういうことを見分けるのもその人の智慧証覚が向上していれば見分けもつきます。ですから智慧証覚を磨けばその判断力がつくのです。それで智慧証覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。

△御講話おわり△

「『御垂示録』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p168~p170」 昭和28年07月01日