昭和二十八年 七月一日 垂録22 (16)

〔 質問者 〕御奉仕のやり方想念によってひっかかるのがあるのではないかと思われますが。
 
【 明主様 】お蔭ですか。前に私が大本教にいたときに、ある人が献金を頼んだのです。するとその人は綾部に行く途中で芸者買いをして使ってしまったのです。そうすると無駄なようですが、ところが決してそうではないのです。その想念はすぐ神様に通ずるものです。「それは霊は行っているので、体だけが使われているのだからなんでもない、上げるというのを持って行って途中で使っても同じだ」というので、私はなるほどと思いました。上げたいという想念です。それが一番分かるのは、死んで間もない霊が咽喉が腫れてしようがないと言うので「遺族が水を上げたでしょう」と言うと、「そうではあるが、その想念が悪いから飲めない」と言うのです。「上げたい」という心で上げると飲めるが、女中に任せたり、お役でやっていると、その想念が間違っているから、飲んでもうまくないし、また飲めないというのです。霊的のことは想念が肝腎です。霊主体従で霊が主なのですから、「これだけお上げする」という気持ちで上げると、途中でなくしても、そんなことは関係ありません。

「『御垂示録』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p168~p169」 昭和28年07月01日