教集23 昭和二十八年六月二十五日(2)

 それから私は前から言おうと思ってはいましたが、これで気がついたので言います。重病の場合でもう治る見込みがないというときに「どんなになっても、まだそんな失望するにあたらないから、しっかりしていろ」と言って慰めますが、これは本当言うといけません。やはり生の執着が御守護の邪魔をするのです。治すのは、正守護神が神様のほうから力をいただいて、自分がお取り次ぎして治すのですが、その場合に生の執着があると、正守護神の思うとおりにならないのです。本人や周囲の者の執着心が邪魔するので、治る場合も治らないということも大いにあります。ですからこれからは、もう駄目だと思ったら、早く本人に諦めさせるのです。「これはもう駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい」と言ったほうが、かえって助かるのです。

 このことは私も経験がありますが、私は二八のときにチフスをし、自分でもとても助かるとは思えないので遺言をしたのです。それは前の家内のときで、当時小間物屋だったが、「自分はもう駄目だから、自分が死んだら商売は誰々に任して、こういうようにしろ」と言ったくらいですから、ぜんぜん生の執着が取れたのです。それで知っている人の兄が医学博士で、病院が近くにあるのでそこに頼んだのです。そうするとその医者が来て診た結果、これは入院しても助かる見込みはない。助かる見込みのない者をみすみす入れるということは、病院の信用を落とすからお断りすると断られたのです。ところがそのころの私の家は狭くて、起居する部屋は二部屋しかないので、もしものときに大勢人が来ても狭いから、死んでもよいから入院させてくれと、院長の弟が友達だったからそのほうから頼んで、やっとはいったのです。それでその当時は自動車はなくて人力車でしたが、人力車にも乗れなかったので、担架に乗って担いでもらって行ったのです。そして寝ながら町を歩いている人を見て、これで人を見るのも見おさめだと思ったのです。そうしたら夢とも現ともなく墓場が見えてしょうがなかったのです。それで自分は駄目だとよけい思われました。しかしどうやら息はつながっているのです。そうして非常に強い薬で、この薬が効かなければもう駄目だと言われたが、それをのまされるとその苦しいの苦しくないの、実に苦しかったです。それでも死なずにいました。そこで係の医者が、最初の見立ては肺炎だというのですが、その医者は肺炎とは思えない、チフスと思うから試験してみようというので、発泡薬というのでツユを取るのですが、ツユを取って顕微鏡で見たら、たしかにチフスだということで、チフスの手当てをしなければならないということになったのです。チフスは絶対流動物であって、チフスには薬はないのです。それから絶対流動物で、だんだんよくなって治ったのです。そういうようで、生の執着を取ったことがよかったのです。

 それには本人が肝腎なのです。本人に「あなたはもう駄目だから諦めなさい」と言い渡したほうがよいです。それから本人ばかりでなく、親や周囲の近親者も大事なのです。近親者の執着の霊が邪魔します。ですから霊の邪魔というのが非常に重大なのです。それはそれとして、家の中に非常に反対している者がある場合に、反対している者は「もしか治ると自分が恥をかいたりするから、どうしても治らないように」と一生懸命に思うその霊がまた非常に邪魔をするのです。そこで、執着はなんにでもいけませんが、執着はどこまでも逆効果になるということを心得ておかなければいけません。これは病気ばかりでなく、他のことにもあります。よく、金が欲しい金が欲しいと思いますが、その金の執着がある間は、金ははいらないのです。その執着が邪魔するのです。まして信仰にはいっていればなおさらです。そういうことは忘れて、どうでもよいと思うようになるとはいってくるので、実に皮肉なものです。ですからあの人に信仰のことを分からせよう分からせようと思っていると相手は分からないのです。勝手にしろ、それだけの御守護があれば分かるし、さもなければ駄目だから、と忘れてしまうのです。そうすると先方で信仰にはいりたいと頼みに来ます。ですから良いことでも執着は邪魔するのです。ある程度骨折って、あと思うとおりゆかないときは、ほったらかしておくのです。そうするとあんがいよいものです。

「『御教え集』二十三号、19530715、19530625、岡田茂吉全集講話篇第十巻p」 昭和28年06月25日