教集23 昭和二十八年六月十七日(3)

 そんなわけで、最近の新宗教でも美術館を非常に造りたがっていますが、金がいることと、鑑識がきかなければならないので、なかなか難しいのです。天理教でも造ろうとしてポツボツ品物を買っているそうです。私のほうはずいぶんと厳選をしますから、道具屋が悲鳴を上げてます。なにを持ってきてもお気に入らないと言うのです。あんなにたくさんあるのだから、ない物なら買う、と言うと、そういう物はありません、と道具屋は弱ってます。私のほうでは、後はいくらも買わないから、天理教に大いに売りなさいと言っているのです。そういうようで、どの宗教でも腹の中では、美術館をこしらえたがっているが、手が出ないので悔しがっているようなわけです。それでこれはたいしたものだと、近ごろになってだんだん認めてきたようです。宗教に関係なく、ただ美術館としても、これほど完備した美術館、また周囲の庭園の状況なども、みんな見るとおりすばらしいものとなっています。この美術館などは、実は見本としてこしらえたものです。私が思い切ってやるのは熱海の美術館ですが、これは来年あたりボツボツやるつもりですが、これはここの三倍くらいの大きさになります。それにここで経験を得てますから、すべてにわたってもっとも完備したものを造るつもりです。ここのでもそうとう世界的なものですが、これからだんだん外国にも知れて行くような様子ですが、熱海にできる美術館こそ、世界一と言ってもよいでしょう。建築の豪華なのはアメリカにもありますが、なにしろ中身が肝腎なのです。結局美術は東洋美術です。西洋の油絵やガラス器具、陶器と言ってもここに出ているエジプト、ギリシア、ペルシアといったようなもので、たいした物はありません。支那陶器は英、米に一番集まってますが、それとても日本に比べたら劣ります。ただ日本はほうぼうに散らばってますが、一カ所に寄せたら断然世界一です。それでその一カ所に寄せるそのために私は骨折って支那陶器を集めていたのですが、いままで集まったまでの支那陶器のレベルとしても、アメリカに比べて劣る所もあるし勝る所もありますが、平均して少なくとも負けてはいません。あるいはいくらか勝っているかもしれません。それで日本にはまだ隠れた支那陶器がそうとうあるのですから、それがわずかずつでも集まってきつつあります。これは私が集めるのでなくて神様が運ばしているのです。ですからどこになにがあるということはだいたい分かってますが、なかなか売らないのです。私は、神様はどういう手続きでこっちによこすかと興味を持って見てます。そういうようで熱海の美術館こそすばらしいものができると思います。それからまだ負けていると思われるのは銅器ですが、しかし日本全体から言えば負けてはいませんが、一カ所に集めているというのではアメリカのフリアー美術館が一番です。日本にもありますが、だいぶ散らばっています。今度少し並べましたが、あれではまだまだ一級品ではありません。あの中での一級品は二、三点くらいです。あれよりかもっと良い物があります。これは少し人が悪いが、先方の懐が楽では駄目なのですから、どうしても売らなくてはならない、というような状態にならなければならないのです。これは別に私がやるのではないので、神様がやるのです。また中には、自分の家の先祖からの秘蔵品だから売らない、と頑張っている婆さんや爺さんがあるのです。それで伜はそういうことはなにもないので、売って事業に使ったほうがよいというので、もう少したって婆さんが死ぬまで、と言っているところもあります。そういうことなども結局神様はうまくやるものです。それからお寺でも、お寺の宝物や本尊様というのがありますから、どうしてもそれを売らなければならないようなお寺の状態になるのです。つまり屋根が漏るとか修繕する所ができてくるのですが、修繕するにはどうしても金がいるので、檀家のほうに言うと、檀家のほうでは額を寄せて相談しても、出るのは溜息ばかりで、とても金が集まるわけがないので、それでは寺のなにかを売らなければならないというので、取っておきの物を売らざるを得なくなります。そうかといって、そういう物の買い手がないのです。そういうのはいずれ国宝ですから、国宝は外国に売ることはできないのです。アメリカでは非常に欲しがってますが、そういう規則のために買えないのです。では日本ではというと、日本で買う者はどこにもないのです。それは仏像の大きな物をふつうの個人で買ってもしようがないのです。床の間には飾れません。そうすると美術館よりありませんが、日本の美術館では油絵を買う所はありますが、そういう古美術を買う所はありません。だから私の所で買うよりありません。そういう売り物もそうとうありますが、私のほうでは、わざと安く値をつけて、ほうっておくのです。そうすると最初は文句を言ってますが、ほうっておくと結局だんだんまけることになります。まだそうとう各寺にいろいろあります。また各寺の本尊様がこっちに来て御用をしたら、霊界にいるそこの宗祖、開祖などは非常な喜びなのです。その手柄によって上人とか大師が救われるのです。それによって仏滅の境目に救われるわけです。だから今度の歌にもあるとおり、みんなそういう人たちが救世教の手柄をしたいと大騒ぎをやっているのです。それにはそういう寺の宝物を、つまりこっちに差し上げるということが一番ですから、結局そういうことになってきます。