教集23 昭和二十八年六月十七日(1)

 ここの地上天国ができあがったについて、その深い意味をお話する前に、そのことを書いたので読ませます。

(御論文「神仙郷地上天国の大いなる意義」朗読)〔「著述篇」第一一巻五三九―五四二頁〕                        

 終わりにあった渦巻きというのは、浄化作用なのですが、この浄化作用というのは、つまり太陽の精、火素です。火素の火の渦巻きです。『旧約聖書』に「ヨハネは水の洗霊をしキリストは火の洗霊をする」というのがありますが、水の洗霊ということはノアの洪水になるわけです。つまり形があるのです。火の洗霊というのは火素の洗霊なのです。これはつまり目に見えないわけです。ですから浄霊で浄めるということは火の浄霊なので、これはやっぱり火の洗霊というわけです。浄霊の仕事というものは火の洗霊の仕事なのです。この火の洗霊はキリストの救いになるわけです。だから救世教はキリストの仕事をしているわけです。しかし以前のキリストは形のほうにおいて、それだけの力を与えられてなかったのです。ところがなぜその力が与えられてなかったかというと、つまり夜の世界だったからです。そこで以前のキリストは月の力だったのです。そこで磔などになってしまったのです。ところが今度は火の洗霊で太陽の精ですからして、月とはぜんぜん力が違うわけです。いつも言うとおり、光でいっても六十倍は違うのですから、礫などにはならなくてすむわけです。これがその時代だったら、やはりキリストと同じように十字架にかかったかも分からないが、今度は神様の力がずっと強いから、そういうことは、なくてすむわけです。というのは、以前は夜の世界だったからして月が主だったのです。これからは昼の世界になるのですから、渦巻きということは、つまり火の洗霊がだんだん拡がって行くというわけですが、これは浄化力が強いのです。そこで霊に穢れのあるものは、火の洗霊によって霊界が浄まってくるからして、それに相応しないで非常に違ったものは亡びる、つまり押し倒されてしまうというわけです。この渦巻きに押し倒され、はね飛ばされない人間が残るというわけです。いまここにいる人は、はね飛ばされる人はないわけですが、ただしよほど身魂が浄まってないと、骨が折れるという人はあるわけです。楽に鼻唄でそこを逃れるようにすることです。大本教のお筆先に「いよいよ立替えが始まりても、神に縋りて居りたる者は高見で見物を致させるぞよ」というのがありますが、そうならなければならないのです。やっぱり芝居なのです。これが最後の審判というものですが、これは世界的の大芝居です。その芝居を桟敷で見るようにならなければならないのです。どうせ芝居です。善人と悪人との争闘ですから、いよいよ芝居がすめば、めでたしめでたしということになりますが、そこで悪役が酷い目に遭って滅ぼされるという、悪役にまわった者はかわいそうですが、ところが今度のこの大芝居は悪役のほうがずっと多そうなのです。だからこっちが磨けていて桟敷にいるようになれば、実におもしろい大芝居です。それはこれほどの劇はとても見られるものではありません。ところが助かって残るという人を作らなければならないから、それが神様の大慈悲なのです。そういう助かる人を一人でも多く作るというのが信者さんの使命なので、これは分かりきった話ですが、そういうように大きな浄化作用がいよいよこれから世界的に拡がって行くということを知ればよいわけです。それでそういう意味において、ここの地上天国ができたということはたいへんなことだというお話をしたわけです。

「『御教え集』二十三号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p303~」 昭和28年06月17日