▽前節から続く▽
それでこれだけを見て、ふつうでいえば何年何十年とかかるたいへんなもので、とにかく財閥かなにかの財力でなければできないと思うようなものですが、それがとにかく、神山荘に初めて越してきたのが昭和一九年五月ですから、まだ一〇年にはなりません。この五月でここに越してきてから九年というわけです。しかし最初は微々たるもので、おまけにその時代には新宗教というのはとてもやかましいので、手も足も出ないので、宗教ということは言えなかったのです。そこで治療ですが、日本浄化療法という民間治療でごまかしていたのです。その時分は当局は信仰というものを非常に恐れたのです。ですからどうすることもできなかったのです。それで一九年五月にここに来て、その年の一〇月に熱海に越しましたが、その時分には信者といったところで、宗教ではないから、信者らしい者でも一〇〇人とはいなかったでしょう。ですからそれこそオッカナびっくりでやっていたのですが、熱海に越したところが、私は警察のブラックリストに載ってますから、東京の警視庁からその土地の警察にすぐ通達が行っていまして、前科者ではないまでも、同様の嫌疑を持たれていたのです。だから熱海の東山荘にいたときは、熱海の警察から来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人、女が何人、合計何人と報告するのです。そうしてときどきは特高などが来ていろんなことを聞いて、年中白い目でギョロギョロ見ているのですから気持ちが悪かったです。それが終戦になって、よいあんばいに信仰の自由が許されたので、二二年八月にやっと宗教法人として宗教的にやることを許され、それから本当の活動を始めたのです。そうしてみるとちょうどこの八月で六年になります。五年何ヵ月かでとにかくこれだけのものができ、熱海もあれだけにできたのですから、実に驚異的です。しかもその間それこそ脱税問題とか新聞雑誌のいろんな攻撃、静岡の事件と、いろいろとギューギューの目に遭わされたのですが、そういう目に遭わされながら、とにかくこれだけに進展してきたのですから、おそらく世界に例がないでしょう。なるほどキリスト教、仏教にしても、日本での宗教の大道場としては本願寺などは信者もそうとういますが、法然、親鸞、蓮如上人が中途に出て、千年以上かかってます。高野山でも千年はかかり、日蓮宗でも六百何十年とかかってます。それでもいまのような状態です。割合に進展したのは天理教ですが、それでも百年以上かかってます。ところがこっちはいま言ったとおり、せいぜい正味六年です。その前から言ったところで、それまでは民間療法でグズグズしていたのですから、結局十年とはかかっていません。それでこれだけの舞台ができたわけです。ですから現在でも既成宗教の本山というものに劣ってはいません。これは時代も違いますが、そういうわけで、この力というものが、いかにすばらしいものかということが分かります。というのは、いままでのあらゆるものは月の力だったのです。それで救世教が初めて日の力を現わしたのです。それがいま言ったような具合にはっきり具体的に現われているのです。そこで日の光がやっと昇ったばかりですから、これからだんだん天の中心に行くに従って光がよけい増しますから、それに準じてやはり発展もそうなるわけです。
それで本当に日が出たのは、私の『自観叢書』にありますが、昭和六年六月一五日に房州の日本寺が始まりですが、あのときは霊界の奥のほう、最奥霊界が黎明になったのです。今度は現界の霊界に日が出たのが一昨々年の私が庵原<いはら>警察の留置所の中で、日が出たと言えばおかしいですが、非常に神秘があったのです。日が出るということは、やはり天照大御神様です。これは『古事記』にもありますが、天照大御神様がお生まれになるときには、最初天宇豆売命<あめのうずめのみこと>という女の神様が非常に舞うのです。これは岩戸開きですが、それで天照大御神様はその岩の戸を細目に開けてご覧になると、いきなり手力男命<たぢからをのみこと>が行って手をとって引っ張るわけです。そうすると五伴男<いつとものを>の神様といって、五人の男の神様が守護して世に出られるということがありますが、これは勿論寓意ですが、それと同じ型が出たのです。あのときに、知っている人もありますが、差し入れ屋の婆さんで五〇近い未亡人ですが、舞いが非常に好きで、舞いを習っているのです。そうして前の晩に大勢呼んでずいぶん舞ったということを聞いたので、これはいよいよ岩戸開きだなと思ったのです。それで当時引っ張られた教団の幹部の人が五人ですが、最初は四人だったので、おかしいなと思っていたら、最後に渋井さんが引っ張られて五人になったのです。そこで五伴男命ということは、梅の五弁になるわけです。大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神、梅で開いて松で治める神界の世になりたぞよ」というのがありますが、梅というのは非常に重大な意味になっています。それで兄の花姫というのは、兄の花と書くのが本当です。木の花咲爺姫<このはなさくやひめ>とは違います。これは桜で仏界の働きなのです。兄の花というのは、梅が一番先に咲くから兄の花です。あとはみんな弟になります。桜のほうは妹、女のほうになります。そこで梅の花が開いて、散りて実を結ぶというのは、梅の花の実は主<す>の種と言ってチョンです。それで、今度の歌にも主の種ということがちょっとありましたが、主の種の花が咲いて、そうして四方に香るという歌が昨日のお祭りの歌の中にありますが、そういうわけです。そこであの当時「散花結実<さんかけつじつ>」というのを書いてみんなにあげましたが、これはその意味なのです。つまり梅の花が散って、これから実が成るという意味を歌ったものです。これは非常に神秘な話です。そうしてあのときの手力男命は望月という弁護士です。あれが私を引っ張り出したのです。そのとき初めて天照大御神様の霊が私の腹に宿るということになります。それがいま、だんだん大きくなりつつあります。もうよほど大きくなっています。それで光がだんだん強くもなるし大きくもなります。その代わり浄化も強くなります。しかし別に私がそうするわけではないので、神様がそうするのです。
そういうようで、力という字は、「チ」は「霊」で、「カラ」は「体」ということを言いますが、「カラッポ」ということです。そこに「チ」「霊」がはいるので、生きた人間というわけです。そこで霊と体が組んで、初めて力が出るのです。それでスというものは世界です。それでいままでの世界というのはカラッポなので、まだ魂がはいっていなかったのです。肝腎な中身がなかったのです。そこでお釈迦さんはうまいことを言いました。「この世は仮の裟婆だ」と言いましたが、たしかに仮の裟婆です。本当ではない、一時の間に合わせというわけです。私は『文明の創造』をいつか読んだことがありますが、「いままでは間に合わせだ、本当のものではない」ということを書いておきました。そこでお釈迦さんは「仏教は真如だ」と言った。真如というのは真の如しであって真ではない、仮であって本当ではないというわけです。仏教のほうでは「実相真如」ということを言いますが、これはあべこべで、「真如実相」が本当です。実相とは本当の魂のはいったものを言います。それで最初真如が出て、それがすんでから実相になるのです。仏の世がすんでから実相世界、神の世界になるのです。そこで大本教のお筆先に「今までは仏の世でありたが、仏力と神力は違うぞよ」というのがあります。それでいままでは要するに仏力、月の力です。今度は神力、神の力です。それで神というのは、「カ」と「ミ」、「火」と「水」ですから、やはり経緯<たてよこ>ということになるから、本当の力です。ですからつまり仏力ということは本当の力でなかったのです。それで彿という字が人偏<にんべん>ということは、これは人間の力です。この文字はなかなか分かり難いですが、片方の弗<ふつ>という字は弓という字なのです。弓に二本の棒を引いてあるのです。弓ということは月のことです。よく弓張り月ということを言いますが、弓の形が月の形になるのです。ですから弓をしぼるとやはり月と同じような形になります。それから神という字は示偏<しめすへん>に申としてありますが、これは申ではないのです。やはり○に十で、上下に突き通っているのです。ですから経緯に結んで、これを世界に示すというわけです。神というのは、どこまでも十なのです。バッジの十もその意味なのです。
▽次節に続く▽