今日はおもしろい奇蹟がありました。さっきこの人が、今日の参拝の人数を報告に来たのですが、そのときに五六七名というのです。私はいつもそういう数字が出るとよいと思ったが、いままでそういうことは一度もないのです。それが今日に限って五六七名というのです。その数字が言葉に出た以上は、その後は増えてもかまわないので、五六八でもよいのです。ところが今日その数字が出るところに意味があるのです。というのは、今度の六月一五日は箱根地上天国の完成記念祭です。ですからここは、つまり地上天国の模型ができたわけです。それで地上天国というのはミロクの世ですから、今日、ミロクの数字が出るということは、それに関連した、たいへんな意味になるわけです。それで一五日の意味の原稿を昨夜書いたのですが、それは一五日に読ませますけれども、だいたいの意味は、まず地上天国の模型がここにできたとすれば、これからそれが左進右退によって、だんだん拡がって行くのです。これはいつも言うとおり、「ゴーラ」の「ゴ」というのは「火」です。「ラ」というのは「螺旋」といって「まわること」です。それで左進右退にまわっているのです。それで左進右退にまわるのは拡がることです。右進左退はすぼまることです。だから「ゴ」「霊」で、霊的に拡がって行くというわけです。霊主体従ですから、霊が先です。ここが先に拡がり出して、体的には熱海ですが、熱海はもう少しですが、とにかくこの一五日からミロクの世になるわけです。もっともこれは小さい型ですが、やがてだんだん拡がって行くわけです。ですからそうなると、今度は浄化作用がまた本格的になりますから、凄いことになります。だから間違ったことは全部訂正されてゆくわけです。その代わり人間でも、善は残り悪は滅びるということになります。これが本当の立て替え立て直しというわけです。今日はこの話はしないわけだったので、一五日にするつもりだったのですが、今日の人数の数字が出たので、もう話をしてもよいわけなので簡単にお話ししたのです。ですから一五日というのは非常にめでたい日なのです。これは世界の紀元節というわけです。それで、それについてというか、関連して、一昨日からこの原稿を読んでいるのですが、もうその時期になったわけです。そのためにこういう原稿ができたのですが、よほど重要な意味があります。
(御論文「最後の審判とは何か」朗読)〔「著述篇」第一一巻五一九-五二〇頁〕
つまり神様のほうが激しくなるわけです。大本教のお筆先に「神激しくなれば、人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、なかなかうまく言ってあります。そういうようなわけで、曖昧であったのがはっきりしてくるというわけです。だから分かる人は救われる人で、分からない人は滅びる人と、こういう具合にだんだん決まってくるのです。ところが分からない人の、滅びるほうがずっと多いのです。ですからどんな人でも救われると思う人が、いままでは大部分でしたが、そうではないので、救われる人のほうが少ないのです。ですから救ってやりたい救ってやりたいと、こっちで思っていても駄目な人は駄目なので、諦めるということが肝腎です。それでミロクの世というすばらしい世の中ですから、あんまり汚い、わけの分からない人間は、かえって邪魔になるわけです。神様のほうでは人口を増やすのは、なんでもないのです。いまでも増え過ぎて困るのです。ですから倍くらいにするのは、なんでもないのです。また、将来そのほうが有利です。捨てられて滅びる人は実にかわいそうなものですが、これはどうもしかたがありません。ですから、その点をよく心得ておくべきです。これはいつも言うとおり、今度の御神業は、人がやるのでなくて、神様がやるのですから、骨を折らなくてできる御神業です。ですから骨の折れるような難しいことは避けたほうがよいです。楽にスラスラと行くことだけをやればよいのです。だからかえって楽で非常によいです。そこが天国を造る宗教としての、かなったやり方になるわけです。いままでは地獄の中で天国を造ろうとするのですからして、まだまだ天国を造る時が来てないのです。地獄の中で天国を造るのだから、苦心惨憺して非常に骨が折れるのです。人間はそういうのを長い間見てきましたから、どうしても苦しむことがよいように、つい思うのです。だからいま言ったようなことを本当に意識するには、なかなか骨が折れますが、その点はよく気がつくように心掛けていなくてはいけません。
だから美術館や庭やなにかが早くできたので、信者でない人などが、これほどにするにはずいぶん苦心しただろうと言いますが、実は少しも苦心もなにもしないのです。楽過ぎるくらいなにも考えないで、その都度、気の向いたときにちょっと指図するくらいで、それでチャンとできてしまうのです。やはり苦心して造ったものは、それを見た感じは、やはりその苦心が移りますから、あんまり楽しい良い気持ちはしないものなのです。こういうこともいままではみんな知らなかったのです。私は展覧会などに行って、いろんな絵を見ますが、非常に嫌な感じがします。というのは、どうかパスされようとして苦心惨憺するのですが、その苦心がチャンと絵に現われているのです。ですからそれから受ける感じは、作者の苦心がこっちに来ますから、少しも良い気持ちはしません。楽しみ楽しみやった良い作品は、それがやはり移りますから、見ていて楽しい良い気持ちがします。そういうことも世間にある美術館の人などは知らないのです。要するに霊的智識がないので、形だけに囚われているからです。根気良く苦心惨借して作った物が良いというように思うのです。そこにいままでの考え方とよほど違う点があります。
ですからミロクの世というものは、地獄の世界を天国にするのですから、まあ人類肇まって以来の大革命です。これほど大きな革命はないとともに、これほど楽にできる革命はありません。無血革命ということを言うが、無血革命というのは争闘をしない意味ですが、そんなものではないのです。無血革命でなくて、もっとも楽にできる革命だからして天国的革命とでも言いますか、そういうようなわけです。それが一五日を契機として、だんだんそうなってくるのです。それが霊主体従の法則によって霊界のほうがそういうようになってきます。ですから物質界、現界のほうにそのとおりに映って行くというわけです。だからその点においては、傍観していてもよいくらいです。ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さないほうがよいです。たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういうことは考えないほうがよいです。ぶつかってきた人は救えということなんだから、それはやればよいです。それから嫌ったりする人は、これは神様はお助けにならない人だと考えて、追いかけたりしないほうがよいです。そのほうが楽に行きます。それを人間的考え方で、「この人を救えばたいへん発展する、信者がたくさんできる」ということをよく考えますが、それがいけないのです。人間には分かるわけがないのです。ですから「こんなつまらない人が」というのがあんがい役に立ったり、「この人は」と思う人が駄目だったりします。それは人間と神様の考えの違うところです。