教集23 昭和二十八年六月六日(3)

 「社会の窓」のNHKのやり方に対しても、これは許すべからざることですから、無論名誉毀損の告訴をします。それを読ませます。

(御論文「ジャーナリストに愬う」朗読)〔「著述篇」第一一巻五三三-五三七頁〕

 とにかく現在のジャーナリストというものは、新宗教を非常に軽蔑しているのです。それで他のことなら、こんなことは決して出るものではないのです。とにかく新宗教というと非常な軽蔑をするのですが、軽蔑という意味は、彼らは新宗教なんてものは、この科学の時代に非常に間違っている、こういう非科学的のものは、ぶっつぶしてしまったほうがよいと、それを良いと信じているのです。しかしそれも無理はないのです。世間の新宗教で、これはというものはないです。ですから私は、もし救世教というものがなかったら、私もやっぱりそれと同じように、新宗教をつぶしたほうがよいと思います。実際ロクなものはありません。そうかといって旧宗教は眠っているようなもので問題にはなりません。ですから私などでも無論無信仰者になります。そう考えてくると、彼らの考え方も決して咎めることもできないが、ただ救世教というものは他の宗教とは違うという認識がないのです。認識がないということはロクロク調べないからです。この放送もロクロク調べないから、すべて悪意にとって、こんなものに迷わせられてはいけないという、一つの警告を与えるつもりですが、ではなぜ認識しないかというと、他のものがつまらないもので、価値がないというので、救世教もやっぱりそれだということに、頭から決めてしまっているのです。そこにわれわれにも非常に損な点があるのです。しかしそれも長い間、こういうような宗教が出なかったのだから、これはやむを得ないでしょう。ですからある時期までは、こっちが苦しんだり、誤解されたりしますから、分からせるまでは非常に骨が折れることはしかたがないと思います。そうかといって、こっちは金であるのに、金をメッキと思われるのですから、それはどうしても黙ってはいられないのです。金は金として大いにそれを言わなければならないのです。そこで骨の折れる点もあるのです。そうかといって、事実は病気の解決はできるのです。病気の本体が分かり、病気の心配がなくなるという、こんなすばらしいことというのは、いままでにはないのですから、結局はみんな頭を下げるに決まってます。それまでの間は、アブやハチがブンブン飛んできて、刺したりいろんなことで、こっちに痛みを与えますが、これはやむを得ないわけです。それで、できるだけそういったハチに刺されないように、追って行くというより、しようがありません。そうしてだんだん時がたつに従って、分かってくるというわけなのです。このことも、ハチに刺されたので、ふたたびハチが来て刺さないように、ハチのやつを一発叩いてやるというわけです。まあ蝿叩きのようなものです。

「『御教え集』二十三号、岡田茂吉全集講話篇第十巻」 昭和28年06月06日