教集22 昭和二十八年六月五日(1)

 だんだん霊界が明るくなるに従って邪神のほうはたいへんなのです。七転八倒してます。つまり医学を利用して人類の健康を弱らせようという大謀略なのです。それを私に見つけられたのです。と同時に霊界がだんだん明るくなってくるので、せっかく二千年以上かかってやった計画を一挙に覆されるという断末魔にあるのです。そこでなんとかして傷つけなければならないのです。というのは邪神のほうでは気づいてはいるのです。しかしそれを一日でも延ばしたいのです。それで中には降伏する者もそうとうありますが、巨頭連が頑張っているのです。なんとかしてふたたび取り返そうというわけです。それですから救世教を邪魔するのに、以前は官憲を使ったり新聞社を使ったりしてやったが、両方とも成功しなかったのです。それで昨夜はラジオの放送局を使ったのです。これで先方の使う武器はおしまいです。だから昨夜の放送を聞いてみると、作り事をやってます。嘘をやっているのです。それで嘘を自分で暴露してます。医者も出ましたが、手術すれば助かったのだということを言ってますが、よく聞いてみると、最初医者は駄目だと言ったのだそうです。それはそうでしょう、なにしろ高い所から落ちて人事不省なのですから、医者で治るということはあり得べからざることです。それを昨夜は手術すれば治るということを言いましたが、それは嘘をついてます。少しばかりでも嘘を言うようでは、自分から悪ということを自白してます。そうしておもしろいのは、最後に、救世教では一〇日生き延びたということは浄霊のためだと言っていると言うのですが、医者のほうでも一週間は生きていると言ったということを言ってます。そうすると医者のほうでも一週間は生きているということは、一週間以後は死ぬということになります。だから手術すれば助かるということとは、自分から嘘だということを自白してます。どこまでも嘘は嘘です。それから船大工だったが、救世教を信仰したから頼み手が非常になくなった、それから世間から相手にされないで孤独だと言うのですが、いろいろ聞いてみると、みんな嘘なのです。ですから弁護士に頼んで、名誉毀損の告訴をするつもりです。そうしておかないと、あとまたそういった嘘で固めて、こっちの妨害をする者が出るといけませんから、その予防もありますし、怖がらせておいたほうがよいと思って、そうするつもりです。医者とか天下の放送局というものが、そういうでたらめを言って、新宗教に打撃を与えようというその行為は、実に憎むべきものです。というのは、邪神のほうでもだんだんやっつけられるので、苦しまぎれにそういうことをやるわけです。それはみんな邪神の眷属がそういう連中に憑って、そうやらせるのです。ところにもっていって、一般の人間は、新宗教なんていうのは虫が好かないというので、なにも理屈はないので、ただ虫が好かないから、なにか折があったらやっつけてやれと思っているところに、なにかやっつけられそうな材料がはいると、よしこれでやっつけてやろうという種に使うわけです。だから他愛ないわけですが、しかしそういうことも邪魔になりますから、そういうことのないほうが一人でもよけい救われますから、そういうことがあると、知らない人はやっぱりウッカリそれに乗ります。だからまだまだある時期までは問題を起さないように大いに注意したほうがよいです。なにしろ先方は武器を握っているし、こっちは無手ですから、振りまわされると怪我をしますから、なるだけ怪我のないほうがこっちはやりよいのです。それで昨夜の放送を聞いてみても、別に医者にかからない、診てもらわないということは言いません。実際に診てもらっているのです。ただ手術は嫌だ、それから薬は、もしか死んでも死ぬときに穢すから、穢されないように薬をのまないというのですから、これはもっともなことです。そこで放送局の連中も、警察署長にいろんなことを聞いていましたが、やっぱり放送局の連中も新宗教が憎くてたまらないので、公平なるべきその職務を忘れて、警察に行って、なにか問題を起したいと思っていることが明らかです。ところが警察署長の答弁は実によいです。少しも不公平はないので、実に公平で、法律上からいって法に触れないと言うのです。ところがなんとか問題にしたいようにいろんなことを質問しましたが、問題にならないような答弁をしたのは、聞いていて痛快になりました。なにしろ邪神は、そういった言論機関とか放送というのを自由に使うのです。使うということは邪神の眷属が憑っていろんなことをしゃべらせるのです。それは信仰のない者は邪神にとっては楽なのです。それもこれも霊界がまだ本当に明るくなっていないからです。ところが霊界は日に月に明るくなっているのです。それが一番分かるのは、あなた方が浄霊しても分かるでしょうが、一年前からみてもずっと治りがよくなっているでしょう。ということは火素が増えつつあるのです。これはまだまだどこまでも治りよくなります。それこそミロクの世になるまで、だんだんよく治っていきます。そうするともうじき、いまのところは信者に浄化が強いのですが、一般人に浄化が起ってくるとバタバタとお陀仏になってしまいます。そうしてお医者は手も足も出なくなります。病人に触れば死んでしまうということになります。注射などをしたらみんな片端からまいってしまいます。そうなると「医学はもう駄目だ、なにか他に代わるべきものはないか」ということになりますから、それまでには救世教は陽として知れ渡りますから、「救世教の言うとおりだ、救世教に限る」ということになって、みんな救世教に頭を下げます。スッタモンダの問題が起るのもそれまでのことです。もうそんなに長くはありません。だからむしろかわいそうなくらいなものです。

 結局、最後の審判にはいって行きますが、それについて信者を作る場合に、いままでは一人でも多く救いたいとしてましたが、これはあたりまえの話です。しかし、神様は大きな愛だから、どんな気の毒な者でも救ってくださると思ってますが、それは間違ってます。神様は、救う者と救わない者とをチャンと分けるのです。ですから救われない運命の者に骨折るだけ無駄になるわけです。救わるべき者と救われない者との判別、その考え方が大いに必要になるのです。それで救われそうな人は、そんなに手数はかからないのです。それだけの因縁がありますから、すぐに分かります。それから迷ったりいろいろゴタゴタするのは駄目なのです。そういう者にかかり合わないようにするのです。そのことを書きました。

(御論文「最後の審判とは何か」朗読)〔「著述篇」第一一巻五一九-五二〇頁〕

「『御教え集』二十三号、岡田茂吉全集講話篇第十巻」 昭和28年06月05日