昭和二十八年 六月一日 垂録21 (8)

〔 質問者 〕三四歳の女、二六年二月入信いたし御用をさせていただいております。先月二日以来浄化にて床についているほうが多く、ヌラのようなものを上げております。乳房の上、鳩尾<みぞおち>、腕の下に大きいのは指先大、小さいのは小豆大のコチコチしたものがあります。

【 明主様 】押すと痛いですか。

 

〔 質問者 〕あまり痛みません。

【 明主様 】熱はありますか。

 

〔 質問者 〕ありません。たまに三十八、九度くらいになる程度であります。食欲は茶碗半分くらいにて体力は弱っております。浄霊は一日二、三回いたしますが変化はありません。入信後間もなく龍神が出てきたことがあります。三二歳の弟は長男で入信いたしておりますが、両親はまだでございます。強く反対もしないが入信はしないという状態でございます。本人の希望で父親に話したことがありますが、いまもって分かりません。龍神と現在の浄化に関係がございましょうか。今後どのようにいたしたらよろしいでしょうか。

【 明主様 】薬毒はどのくらいはいってますか。

 

〔 質問者 〕そうとうにはいっております。新しいマイシンなどの薬は入れておりませんが、サルバルサンを一五本くらいしているそうで、あとはブドウ糖に栄養剤くらいでございます。

【 明主様 】あとはと言うが、それが悪いのです。あなたはなんでもなく思うでしょうが、ブドウ糖などは悪いのです。これはまず駄目です。いったん良くなったのですか。

 

〔 質問者 〕ある程度良くなったような状態でしたが。

【 明主様 】難しいです。私に聞いてくれというのでしょうから、私の返事は「娘さんがなおったら信仰にはいりなさい。なおらないうちはよしなさい」です。

 信仰に入れてなおすということは原則に外れています。なおってから信仰に入れるということが本当なのです。あなたはその理屈は知っているでしょう。古い本に書いてありますし、また教えてもあります。それは、命にかかわる病気はなおってから信仰にはいるようにするのです。それから命にかかわらない神経痛などは、病気がなおらないうちに信仰にはいっても結構です。命にかかわるようなのは完全になおって、とにかく命の心配がないというくらいになおってから信仰にはいるのが原則ですから、いまの人はまだ曖昧で命にかかわる懸念があるから、そういうときに父親を信仰に入れるということは間違ってます。だからはいらないほうがよいのです。そうでないと、「信仰にはいればなおると言うからはいったら死んでしまった、救世教というのはいい加減なものだ」ということになるから、骨折って結果が悪くなります。だからいま言ったようにするのです。信仰でなおすというのが本当ではないのです。信仰は治療機械のようなものではありません。「なおってありがたい、こんなに丈夫になった、だからどうか自分もそういった困っている人を助けたい、それには信仰にはいってお力をいただきたい」というのが順序です。だからその順序が狂っていては、どうせ信仰にはいっても本当の順序にはなりません。それが理屈に合っているのです。だからなおりもしないのに信仰に入れるということは理屈に合いません。また、信仰するからなおしてくれというのでは、とにかくおかしな話です。それでは神様をいくらか軽く見るというか、そういうことになります。

「『御垂示録』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p141~p143」 昭和28年06月01日