昭和二十八年 六月一日 垂録21 (1)

【 明主様 】最近名古屋の新聞に出たことで、私は題だけで本文は読んでませんが、やっぱり病気で医者にかからないで死んだという、ときどきあるような問題をデカデカと取り上げていました。これから浄化が強くなるに従って心得ておかなければいけないことは、なおりが早いことと、死ぬのが早いことで、そういうようになってきます。とてもなおるまいと思うのがあんがいなおったり、まだ大丈夫だと思っていたのがポカッと死ぬということが出てきます。それで邪神のほうでは非常なあがき<ヽヽヽ>を始めますから、つまらないことでも問題にしようとして狙ってます。そこでなおれば黙ってへこんでしまいますし、ちょっと命にかかわるようなことがあると、それこそ「それ見たことか」というので、大いに取り上げたり、問題を起したりしますから、その点において特に注意してもらいたいと思います。

 

〔 質問者 〕三重県で出ました記事ですが、私はぜんぜん浄霊したことはありませんが、私がしたように書いてありまして、そこは父親と兄弟二人の三人が入信しておりますが、兄が入信することになって教会に来ておりますときに、弟が船に乗っており、その船が衝突して船首にいた弟は腰を打ち、みんなが医者に連れて行こうとしましたが、本人が頑張って家に帰りました。兄は医者に酷い目にあってこちらで救われております。教師が浄霊を続け、家族の者もいたしましたが、はかばかしくないということを聞きましたので、医者に診せるように言いました。死亡後医者を呼びましたが、すぐ来てくれず、他の医者に手をまわしましたところ、前の医者が警察の人を連れてきたそうです。

【 明主様 】腰を打ったくらいで、そういうことになるのはおかしいです。

 

〔 質問者 〕尿がぜんぜん出なくなったそうでございます。以前に尿道炎、膀胱炎で固めておりますとかでございますが。

【 明主様 】しかし腰を打ったくらいでそんなことがあるわけがありません。浄霊をした人は今日来てますか。

 

〔 質問者 〕教師が二人でいたしておりましたが、今日はまいっておりません。

【 明主様 】そういうことがあれば、今日はなおさら来なければいけません。どういうわけで死んだかということを質問に来なければなりません。それを来ないということは解せません。そんな人は教師を止めたほうがよいです。これはどういうわけで死んだのかということを質問に来るべきではありませんか。それがなによりも肝腎なことです。今日来ないということはどうかと思います。この間も「理屈に合わないことはいけない」と、あれほど言ってあるのですから、そういうときこそ「どういうわけで死んだのか」ということを聞きに来るのが理屈に合っていることではないですか。それを来ないということになると、このくらい理屈に合わないことはありません。そういう人は当分遠慮してもらうことです。そうして大いに責任を感じてもらうのです。なるほど自分が悪かったということに気がついたらお詫びに来るのです。さもなければ、私としても、そんな無責任きわまるような人に教師として宣伝してもらうということは困ります。そのことを知ったのはいつですか。

 

〔 質問者 〕二七日でございます。

【 明主様 】浄霊した人にいろいろ聞きましたか。

 

〔 質問者 〕出てきませんので。

【 明主様 】呼んで聞けばよいのです。そうして今日連れてきて、私に詳しく話をすべきです。これは重大問題です。あなただって、どういうわけかを聞きたいでしょう。そうするとあなたも無責任です。はなはだ理屈に合いません。やっぱり神様は、ボヤボヤした人や、とぼけたような人はキュッとやられるのです。だんだん時期が進んで来るに従って神様はやかましくなってきます。やかましくと言ったところで、べつに無理や理屈に合わないことはないのです。人間のほうが理屈に合わないのです。それをチャンと戒告されるのです。なにしろだんだん医学のほうはギュウギュウと押しつめられるから、先方でもなんとかしなければならないというので、こっちの欠点とか問題になりそうなことをいろいろ狙いつめてますから、なかなかウッカリしてはいられないのです。どんなことがあってもチャンと理屈が立つように心掛けていなければならないのです。そこは家族で反対する者はなかったですか。

 

〔 質問者 〕ございませんでした。

【 明主様 】警察にはだれが行ったのですか。

 

〔 質問者 〕医者が連れてまいりました。

【 明主様 】それは医者にかからないで死んだら検死をしなければならないから、それがあたりまえです。そういう規則になってます。医者が警察に知らせるということはあたりまえです。死ぬということは、その前によほど重態になってましたか。

 

〔 質問者 〕尿をぜんぜん排泄しなかったそうでございます。

【 明主様 】それならすぐに医者を呼ばないということはないではないですか。それははなはだ間違ってます。それは問題にされるのはしかたがありません。そういう問題を起した不注意を、問題を起した浄霊の担任者は、一刻も早くお詫びに来るのが本当です。今日はこういう会合があるのにぜんぜん出てこないということは問題になりません。そういうのは教師を止めなさい。それが新聞に出たためにどのくらい影響するか分かりませんから、自分が過ちを犯して、どのくらい神様に御迷惑をかけたか分かりません。その責任を感じて一刻も早くお詫びをせずにはいられないはずですが、それを来ないということは、それだけでぜんぜん信仰もなにもありません。贋<にせ>信仰です。また、それに対して、あなたが大いに言わなければならないが、それに気がついたかどうか知らないが、まあ気がつかなかったのでしょうが、気がつかないで家を出てくるということも感心しません。このごろいろんな注意をときどきしていますが、やっぱり御神書の読み方が足りなかったり、私の言うことを気に止めなかったりするからです。救世教というものがだんだん発展するに従って、世間から注目されます。大本教のお筆先に「抜身の中に居るような気持でなければならんぞよ」というのがありますが、よく政治家などが「ガラス張りの中にいるような」と言いますが、ガラス張りの中にいるというよりかもういっそう強めたものです。抜身の中にいて、スキがあったら切りつけられるというくらいの気持ちでなければならないのです。やはり一つの戒告ですから、やはり神様はその人だけの注意でなくて、やはりそういう見本を作って他の全部の人に知らせるということです。ついこの間も「合理的でなくてはならない、理屈に合わなくてはいけない」ということを言いましたが、それほど危なくて重態であるにかかわらず医者を呼ばないということは、とんでもないことで、理屈に合わないことです。チャンと理屈に合うことをしていればなんでもなかったのです。そういうことが問題になって新聞に出たりすると非常に悪影響をします。神様の御神業に対するどれほどのお邪魔になるか分かりません。百のよいことを一朝にして覆してしまいます。またあれに出たことが非常に響きます。そういうことが入信者が増えるに対して悪影響するのが数字の上に実によく現われてます。だからそれこそ、べつに命にかかわらないような病人はよいですが、少し危ない病人は腫れものに触るような気持ちで、神経過敏になってやらなければならないです。いくら一生懸命にやっても、そういう問題を起したら、いままでの功名を抹殺して、まだもういっそう余りあるというくらいのものです。それで「自分はとんでもない間違いをした、一刻も早くお詫びしなければならない」というような気持ちがあるような人なら、そういう問題は起りません。そういう問題が起るというのも、今日も来ないというトボけた心の状態だから、そういう問題を起すということになります。それからまた渡辺さんが、こうして私が注意を与えなければならないということは、あなたが平常から下の人にチャンと、そういう浄霊と医者関係に対しても注意を与え、教えるということが疎かだったのです。それに対しての神様の戒告です。それとともに、他の人の中にもそういう人があるから、これを一つの注意の資料として、いま渡辺さんがその道具になったという意味にもなるのです。だからそれによって渡辺さんのいまの罪が、一つのよい働きをしますから、それで渡辺さんは罪を消されるというわけです。だからすべてが相応の理によって、理屈に合うということになるのです。だから今後は、だれでも問題を起さないようにという考えでいるには違いないが、いっそう問題を起さないようにすることです。

 それについて、いまの話はそうでないようですが、一軒の中に反対者がある場合にはよほど注意しなければならないのです。いままで問題を起したのは、ほとんどそれが多かったです。医者にかかれと大いに言うにもかかわらず、かからないで死んだりすると、それ見たことかと、それを土地の新聞に投書するとか警察に投書するとかして問題が起ることが非常に多いのです。ですから一家の中に反対者があった場合には医者にかけることです。そうしておけば、間違ったときにも問題が起りませんから、ぜひ医者にかけなければなりません。いまの弟の話なども、家の者は信仰にはいっていたからそうでもないが、周囲の者が言ったに違いありません。

 

〔 質問者 〕同船していた者が非常に騒ぎました。

【 明主様 】だから、やっぱりそのとおりにやればよいのです。腰を打ってから死ぬまではどのくらいでしたか。

 

〔 質問者 〕五日くらいでございます。

【 明主様 】それでは充分に医者にかける時間はあったのです。それは腰を打って内出血をして、それが下に溢れて固まった所が、膀胱から尿道に行く道に固まったのです。そうして浄霊する人は腰ばかりやっていたのでしょう。だから見当違いをやっていたのです。

 

〔 質問者 〕腰と後頭部をいたしたそうでございます。

【 明主様 】それが見当違いです。

 

〔 質問者 〕腰が曲がったままで、見当をつけてするよりなく、横からも後ろからも浄霊ができなかったそうでございます。

【 明主様 】そうすると、痛んで腰を曲げられなかったのですか。横にも寝られなかったのですか。

 

〔 質問者 〕帯で身体をつっておりました。

【 明主様 】それほどなら、無論医者に行かなければならなかったのです。

 

〔 質問者 〕医者に診せるようにとは言いましたが。

【 明主様 】言っただけでは駄目です。実際にかけなければ駄目です。そういうのは本人の承諾もヘチマもないのです。医者を呼べばよいのです。それで後、本人が嫌がるのはかまいません。だからなんとしても間違っていたのです。それは医者を拒絶する場合と、拒絶してはいけない場合との区別があります。それを一緒にしてしまってはしようがないです。

 浄霊を担当していた人はなんという人ですか。

 

〔 質問者 〕K支部のHと申します。

【 明主様 】そこの支部長はだれですか。

 

〔 質問者 〕M・Kでございます。

【 明主様 】Mという人は来てますか。

 

〔 質問者 〕まいっておりません。

【 明主様 】駄目ですね。問題が起ったのはいつからですか。

 

〔 質問者 〕二七日からでございます。

【 明主様 】いくつの新聞に出ましたか。

 

〔 質問者 〕『毎日』と『中日』の二つでございます。

【 明主様 】もう一つ問題があったのではありませんか。

 

〔 質問者 〕岐阜のS中教会のことでございますが、医者が行かないうちに死んだということで、もう一つ一緒に出していたのは、一月のことで教師の家で精神病となり帰れず、医者にも診せて、問題はありませんでしたが、それを新聞に取りあげておりました。

【 明主様 】しかし、それはなにかあったのです。なにもなくてあるわけがありません。初めの問題はなに支部ですか。

 

〔 質問者 〕S会でございます。申し訳ございません。一三の子供ですが、私はその子は知りませんが、母親は昨年入信いたし非常にお蔭をいただき、今年になって非常な御浄化をいただき、これもお蔭と喜んでおりました。死亡する三、四日前から子供の具合が悪いということを言ってましたが、私は相談を受けまして脳炎らしいから医者にかけなさいと、医者まで紹介しましたが、その医者が具合が悪くて近所の別の医者を頼んだところ、急性化膿性脳炎で手の施しようがないと言ったそうです。また隣と前の家が薬局で、前に母親がこちらでなおったのを目の敵にしていたそうですが、子供が亡くなったので、それ見たことかと新聞で騒いだのではないかと思います。

【 明主様 】そうすれば新聞社がけしからんですから、名誉毀損で告訴したらよいです。ちょっとでも向こうが間違っているということは、むしろ逆にこっちで問題にしてやったらよいです。それでもし新聞社が薬局の投書でやったのだとしたら、薬局も訴えたらよいです。そうだったら、ぜひそうしなさい。
 それから一月の問題というのは何日の新聞ですか。

 

〔 質問者 〕五月二九日ごろでございます。

【 明主様 】なんと出てましたか。

 

〔 質問者 〕精神病がお祈りによって死んだというようなことでございます。

【 明主様 】精神病では死なないものですが、他になにかありましたか。

 

〔 質問者 〕非常に衰弱しておりました。

【 明主様 】投書かなにかあったのですか。なにかなければ新聞社は分かるわけがないでしょう。それなら新聞社にどうしてこういう記事を出したかということを調べるのです。

 これからますます浄化が強くなりますから、衰弱なども非常に早いのです。そうしてまだと思うような者がポカッと死んでしまうことがだんだん増えます。その代わり、いっぽうなおるのも早いです。だから大いに警戒しなければいけません。三つも問題を起すということはたいへんなものです。これが一番悪いです。これが御神業に対して非常なお邪魔になります。つまりみんな邪神に負けるのです。負けるということは、それだけタガがゆるんでいるのです。こっちがチャンと知っていれば、邪神のつけ込むスキがないのです。やっぱりこっちにスキがあるから先が打ち込むのですから、抜身の中にいるつもりでいなければ、いつ抜身でやられるか分かりません。しかしこれは薬になります。少しタガを締めてもらわなければいけません。それでなにしろ御神業というものは千変万化ですから、これからはできるだけ医者にかけさせる方針にするのです。それより他にしようがありません。医者にかかることと問題を起すことはどっちが悪いかというと、問題を起すほうがずっと悪いので、医者にかからせたほうがずっとよいのです。問題を起さないということが第一です。ちょっと危ないと思ったり思うように行かなかったら、医者にかけるか、さもなければ手を引いてしまうのです。病気がスラスラとなおってしまうのはよいですが、どうもうまく行かないとか、スラスラと行かないのは、手を放すか医者にかけるかどっちかです。ですから和戦両様の準備をしなければいけません。死んでも問題は起らない、助かれば結構だ、というどっちに行っても問題は起らないというやり方にするのです。これはあらゆることがそうです。アメリカの立場にしても、平和になっても戦争になってもどっちでもよい、というやり方をアイゼンハウアーはやっているのです。ところがイギリスのチャーチルのようなのは和平になるという考え方が非常に濃いですが、これは国が弱っているからしかたがないことではあります。どっちに転んでも間違いないというやり方が一番よいのです。そういうずるいやり方が一番よいのです。正直なやり方が馬鹿なのです。これからはそういうずるいやり方でやることです。ちょっと変だと思ったら、まず医者に診せるのです。注射の一本や二本うっても別にたいしたことはないので、差し支えありません。注射が悪いといっても一時的ですから、そうしておいて後は適当に考えればそれでよいのです。本人がまたかかりたいと言うのならしかたがないので、そうなったら手を放すとよいです。いつも言うとおり、あせりと無理がいけないのです。この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。よく「この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける」ということは人間の考えです。ところがそういうことで開けるということはまずありません。かえって、この人がなおってもなんになるか、というような人がなおってあんがい開けるものです。そういうようで人間の考えを抜くというのはそこのところです。神様の考えは人の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。ですからつまりぶつかってきたということは、神様は「助けよ」という思し召しだと考えるのです。こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないか、というようなことがありますが、それが将来あんがいな働きをするものです。「この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう」とするがあんがい駄目です。そういうことが多いです。これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人があんがいよい霊です。むしろそういう人のほうが多いです。だからぶつかってきた人は、なおせという思し召しで、フラフラになるのはほったらかしておけという思し召しです。だから病気がスラスラとなおる、また言うとおりのことをする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。それから側の人が医者にかかれ、かかれと言うのは、医者にかかったほうがよいのです。そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。いまの場合に、みんなが医者にかかれ、かかれと言うのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。「あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ」と頑張るのはとんでもないことです。そしてこういう分からず屋で、頑張っているから、目にもの見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違うところです。そこが大乗と小乗との違いです。だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。それを「あいつはああいうことを言う」と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。ですから私は女中などが「こうしたほうがよい」とかいろんなことを言うが、私はそのとおりに言うことをきくのです。決して人によって区別したりしません。神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりすることがよくあるのです。それからまた邪神が偉い人に憑って迷わせるということもありますから、そこに言うに言われないところがあります。

 よく神懸りになって、狐なら狐が憑ってきますが、そうすると狐に瞞されてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。狐に瞞されたほうがよいのです。いろんなことを言いますから、「そうかなるほど」と言っているのです。それでこれはどういうわけですかと聞くと、先はぺラペラと返事をします。そうしてやっているうちに今度は狐自身がボロを出してきます。それで狐は謝るのです。私はそういうことがずいぶんありました。瞞されるものかと思っているときは、かえって瞞されたり怒ったりするのです。狐がぜんぜん嘘のことを言っていても、「そうですか」と感心して聞いているのです。そうすると狐のほうで間違ってしまうのです。これは実に味わうべきことです。そうしていたらなんでもありません。すべてに結果がよくて円満に行きます。そこが大乗でなければならないのです。ですから先が嘘をついても、それを咎<とが>める間は駄目です。なるほど、そうですか、と感心しているのです。しかし肚の中では分かっていなければなりません。そこまで人間は横着というか、そうならなければならないのです。道具屋が来て私を甘く見て、「これはこういう物だ、これは贋物だ」と言うから、「そういえばまったくですね」と言うが、肚の中ではなにを言ってやがるのだと思ってます。これは馬鹿野郎だな、オレがそんなことを知らないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。そうしているうちに、「うまいことを言う、なるほどそうだな」と教えられることがあります。支那のなんとかいう人は「人によって話を区別するな」ということを言ってます。つまらない人足か、それこそ百姓などが言うことで非常に教えられることがあるのです。ですから人によって区別をしないようにすることです。なんでも自分の耳にはいったことは一応気に止める必要はあるのです。また子供に教えられることがあります。これは経験があるでしょうが、子供がとてもうまいことを言います。ちょうどベルクソンの「直観の哲学」と同じようで、子供は本当の直観ですから、すばらしいことを言います。母親と子供が喧嘩をしてますが、子供の言うことが本当の場合がよくあります。ですからそういうようにしてすべてをやっていれば、決して問題は起らないのです。病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、「それは結構だ、まったくそのとおりだ」と言って、感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分かると思います。「私のほうではお医者にかかるな、薬をのむなとは決して言いません。それはあなたの御随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたのほうで採用するしないはあなたの御随意だ」というように言うのです。それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。それをなんとか説得させょうと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。要するに人間、心の底に誠があればよいのです。あとはできるだけ横着でよいのです。心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持ちがあったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。それが千変万化です。ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。つまり円転滑脱というか、それです。だから人間は、難しいことですが、アクが抜けなければいけないです。いつも言うとおり、たいていなことは負けるのです。議論とか、そういういろんなことは負けるということです。これが一つの修行です。先方の嘘も本当に聞いてやるという、一つのつらいところですが、そこを平気で我慢できるようになる修行です。これが本当の生きた修行です。それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものではありません。いずれは必ず先方が悔悟なり分かるなりして謝るとか、あるいはそれがもしか分かることになると、今度はこっちを非常に尊敬します。あの人は偉い、オレが前にあんなくだらないことを言ったが、それをまじめに聞いてくれた、よほど腹ができているに違いないと、それからは信用することになります。

 いまの問題を動機としてこういう話が出ましたが、私はこういう話をしようと思ったのではないので、自然に出てきたのです。しかしこういうことによって大いに教えられるわけです。そこでこの失敗がよい働きをしたことになり、そこでその失敗を神様のほうでよいことにしてくれるわけです。そうすればその働きによって、その罪が消されるということになります。だから、信仰も、とにかく大乗的に考えていけばすべてにうまく行きます。うまく行くから発展もするというわけです。それに神様のほうはなかなか深いのです。それは神様のほうばかりでなく、世の中のこといっさいが実になんとも言えないおもしろいものがあります。人間はそこまで分からないから迷ったり苦しんだり怒ったり、見当違いなことをよいと思ってやることになります。大本教のお筆先に「あんな者がこんな者になり、こんな者があんな者になる仕組であるぞよ」というのがありますが、実に簡単でなんとも言えない味わいがある言葉です。ですからいつも言うことですが、医者のために苦しんでいる人を見ると、医者に対しての憤激もずいぶん起ります。しかし医者がそういうように病気をなおすことが下手であればあるだけ、こっちの値打ちがあるのです。だからもし医者がスラスラと病気をなおしてしまったら、それですんでしまうから宗教になど来る者はありません。そうしたらこっちの人の活躍する所はありません。だからお医者の下手なのに対して大いに感謝してよいです。ところがお医者に聞いてみると、医学の目的は人類から病気をなくすることだと言ってますが、人類から病気がなくなったら、お医者さんはメシが食えないことになります。そこで考えが、大乗と小乗と違ってくるのです。なんでも神様にお任せすればよいということも真理なのですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様にお任せきりで努力もなにもしなかったら、これもやっぱりいけません。だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるということも必要なのです。とにかくそこの使い分けです。そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。大乗がよいからといっても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗のほうが主になってはいけないので、大乗のほうが主になって、小乗のほうが従にならなければなりません。その使い分けに難しいところがあり、言うに言われないおもしろ味があります。いつも言うが、いまでもときどき暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、一日のうちに二、三度着替えることがありますが、私はそれが一番よい陽気だと言うのです。どっちかに決めたら悪い陽気だと言うのです。そういうようなもので、人間というものは、なんでも不平に持ってくるのです。それではなにごとも満足するとよいかというと、満足したら進歩がなくなります。そこで不平も必要になります。要するに満足と不平が、これは相反するものだから調和はしませんが、しかしうまくあんばいし、使い分けて進んで行くのが本当です。自動車の運転と同じようなもので、ちょっとでもいっぽうが勝てば、そのほうに行ってしまいます。不満のことも起るのだから、不満のこともよいです。それからまたいっぽう満足もあるから、それもよいのです。それから病気で苦しんでいるときに、命が危ない、このままではどうしても死ぬよりないというときに、これはいくら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。そうしているうちに、なおって、だんだんよくなってきて命の心配がなくなると、今度は欲が力をつけてきて、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなければいけないという欲が出てくるのです。そうしているうちにいつの間にか、助かりさえすればよいというときのことを忘れて、欲を出すということは、だれでもあることで、私なども経験があります。それは最初の病気のときに考えたことも本当なのです。それからそういった欲が出るのもやむを得ないのです。ただそこのところをうまく程のよいということです。人によると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思っている半分も三分の一も御礼をしないということもあるので、そこでこの間再浄化ということを話したり書いたりしたのです。そこで結局「程」です。いっぽうに片寄るから、そこに問題が起ったり無理があったりするのです。そこで「程々」ということが伊都能売<いづのめ>になるのです。私は以前読んだことがあるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。実に簡単に言い現わしてあります。「程」という字はたいしたものです。伊都能売ということの働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。それで「程」ということは、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。「程」というのはどっちにも片寄らない、ちょうどよいところに収めるというそれをよく現わしてあります。あの人は程がよいと言うと、その人は非常に好ましいということになります。ところがその程がよいという人はまことに少ないので、たいていはどっちかに片寄ってます。だからそれで失敗したりうまく行かなかったりするのです。今日は珍しくお説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったものでは、こういう話が多いのです。しかし救世教ではこういう話をあんまりやりませんが、やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、そういう意味においてたまにはよいと思って話をしました。では質問をどうぞ。

「『御垂示録』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p116~p132」 昭和28年06月01日