教集21 昭和二十八年五月二十七日(2)

 それからこの前「信仰は理屈に合わなければいけない」ということを言いましたが、それに関連したことがありましたから、そのことを書きましたから、いま読ませますが、つまり浄霊の場合に、いままで、でたらめが多かったのです。そのでたらめでは、そこに理屈に合わないと、骨を折ってそれだけの効果がないのです。それにちょうどよい例がありましたから、いま読ませます。

   (御論文「信仰の合理性に就いて」朗読)〔「著述篇」第一一巻五二一-五二二頁〕

 つまり浄霊でも、でたらめではあんまり効かないのです。それですから私なども、ふだん家内などがどんなに苦しんでいても、決して向こうでやってもらいたいと頼むまでは、絶対にやってやらないのです。「ここが苦しいから」「ここが痛いからやっていただきたい」と言えばよいですが、人間というものは変なもので、謎をかけるのです。「ああここが気持ちが悪い」とか「ここが苦しい」と言うのですが、私は知らん顔をしているのです。向こうが頭を下げるまではやらないのです。それはべつに、意地が悪いのでもなんでもないのです。そうでなければなおりが悪いのです。一番悪いのはよく押し売りをします。「さあやってやろう」と言ってやりますが、それがいけないのです。もっとも赤ん坊は別ですが、分別がある以上は、先方がお願いすると言ってからでないと、やっても効果がないのです。ですからそれをよく心得ておかなければならないのです。ちょうどなにかの場合に、御利益をいただきたいと神社仏閣に行って、どうかお助けいただきたいと言うのなら御利益をいただけるのです。それをその辺をボヤボヤと行ったり来たりしていれば、なにをしている、と神様だって横を向かれます。というのは、人間と神様の地位に高下のあることを忘れてはいけないのです。それから「なおしてやるから御礼しろ」とか、また「なおったら信仰にはいらしてもらう」というのならよいですが、「なおったら信仰にはいってやる」というのは、どっちが上だか分からないことになります。だいたい、なおったら御礼するということも、いままでは神様を傭って使うようなもので、賃金をやるようなものです。これだけの仕事をするから、これだけの賃金をやろう、ということでは神様だって横を向かれます。そこがなかなか難しいのです。また、あんまり御利益のないのに金を上げろというのもいけないことです。前に、天理教の教師で、病気で苦しんでいるときに、いくらいくら金を上げれば助かるということをよく言うのです。それで、そのいくらいくらを上げるのですが、なおらないで死んでしまうことがありますが、私は、それでは神様がやっているのではなくて、神様の取り次ぎ者が詐欺をやっている、とよく言ったことがありますが、これは御利益があって、本当にありがたいという感謝の気持ちで上げるのが本当のことで、受け売り仕事でさせるのはいけないのです。しかしまた、それだけの御利益があり、命まで助けてもらいながら、それを忘れたり、よけいなつまらない金にはウンと使って、御礼のほうには少しばかり上げるということも理屈に合いません。ですからこの前も言ったとおり、理屈に合わなければいけないということです。ですからいまの支部長に浄霊をやってもらうということも、ぜんぜんいけないことではないのですが、それはごく苦しいときとか、病気が分からないときは支部長に聞いて浄霊してもらえばよいですが、そうでなくて、自分でやればよいのを支部長の手数をかけるというのは間違っています。それも病気によっていろいろありますが、肺炎というのは、ほったらかしておいてもなおるくらいですから、父親か母親がやればそれで結構なおるのです。それを早いうちから支部長に頼むとなおりが悪いのです。かえって父親や母親がやるほうが、より早くなおります。というのは、支部長というものは多くの人を助け、御神業を発展させるということの考えでいるべきであって、そこが外れているから、骨折りながらうまく行かないというわけです。ですから、ただむちゃくちゃに浄霊してもいけないので、そこに筋が立たなければいけないのです。「神は順序なり」と言うから、その筋を立ててやれば、割合楽になおるのです。そういうことはいままで割合に話しませんから、そういう間違ったことが起るわけです。これは肝腎なことですから、いま話したわけです。

「『御教え集』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p257~258」 昭和28年05月27日