教集21 昭和二十八年五月二十六日(2)

 それからあんまり気持ちのよい話ではありませんが、最近子供の病人で思うようになおらないということがあり、それは根本的に間違った点があったのです。これはたくさんありますが、それに気がつかないで、よいつもりでやって成績が悪いということがありますが、それを教えるに非常によい例ですからいま読ませます。

(御論文「信仰の合理性に就いて」朗読)〔「著述篇」第一一巻五二一-五二二頁〕

 個人的間違いは秘しておくと書いてありますが、これがまたたいへんなことなのです。二番目の子供を産んで、七カ月くらいたったときにまた妊娠したのですが、そのくらいで妊娠すると前の子供が育たないということを人から聞いて、それを信じて堕胎したのです。いまは妊娠中絶という体裁のよい言葉がついてますが、実は堕胎をしたのです。ですから母親に言ったのです。堕胎というのは殺人だ。わが子を殺すという子殺しの罪になるから、それも子供の病気に関係しているのだと言ってやりました。今朝か昨夜聞いたところによると、肺炎の子供は死んだそうです。ですからそれも大いに原因しているわけです。というのは、神様のほうでは、せっかく与えた子供を殺すということは、それではお前には子はいらないのだろうから、そういうのに与えた子供は、やはり召し上げるという理屈になるわけです。理屈に合わないことをすれば理屈に合わない結果になってしまいます。少なくとも信仰にはいっていながら堕胎などをするということは、とんでもない罪を犯したのです。それも、あとのやり方が理屈にあっていて、そうして非常に悔悟して、自分はとんでもない間違ったことをしたと言ってお詫びをすれば、あるいは助かったかもしれないが、そういうことも支部長はあんまり言わなかったらしいので、私がそう言ったらびっくりしてました。そうすると支部長のやり方がもっとも間違っていたのです。それでも支部長がそれに気がついて、心からお詫びをして、父親か母親に子供の浄霊をさせるというようにすると、助からないことはなかったが、神様は厳しいのです。しかし理屈に合えば、神様は愛ですが、理屈に合わなければ神様はどうしようもないのです。神様は御利益をいくらでも与えたいのです。ところが資格がないのです。たとえてみれば金銭にしても、神様はいくらでもザルなり財布なりに入れてあげたいのですが、この財布の中に汚いものがあるから入れられないのです。それを掃除すればよいのです。ですから人間のほうで命を助かりたいときには、人間のほうで助かる状態にすればよいのです。それをしてないから、神様のほうにも規則がありますから、神様自身がその規則を外すことはできないから、助けたくても助けられないということになります。大本教のお筆先に「お蔭は御自分でとりて下されよ」というのがあります。それで慢心と取り違いを非常に戒めてあります。至る所で「慢心取違いをして下されるなよ」というのがあります。これはよくあるが、信者になりかけのときには、オッカナびっくりでやると、よくなおるのです。ところが「もうオレはだいぶ偉くなった」という考えでやると、あんまりよくなおらないのです。それはもう慢心だからです。ですからオッカナびっくりでやるときは、神様のお気持ちにかなうのです。それを「もうオレは大丈夫だ」というようになったら駄目なので、そこに注意することです。これはすべてにそうですが、「もうよい」と思うと、もういけないのです。それでオッカナびっくりしているうちはうまく行くのです。これはだれでもそういう経験はあるでしょう。私などでもそういうことがあります。いまの話は慢心ではないので、取り違いですが、「慢心と取違いに気をつけて下されよ」というのがお筆先にありますが、この二つが非常に肝腎なのです。この話はそのくらいにしておきます。それから『救世教奇蹟集』はもうできたので、これから印刷にかかろうと思ってます。その結論はちょっとおもしろいから読ませます。

  (御論文「世界救世教奇蹟集 結論」朗読)〔「著述篇」第一一巻五三〇-五三二頁〕

「『御教え集』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p249~251」 昭和28年05月26日