教集21 昭和二十八年五月二十五日(3)

それから最近こういうことがありました。ちょっと気のつかないことで重大な間違いがあります。それを読ませます。

(御論文「信仰の合理性に就いて」朗読)〔「著述篇」第一一巻五ニ一-五二二頁〕

 これは『栄光』に出すから個人的秘密ということは書いてありませんが、個人的の間違いというものも、たいへん悪いのです。それは二人子供があって、三人目を妊娠したときに医者に行って人工中絶をしたのです。それはどういう理由かというと、まだ子供にお乳を飲ましているときに後の子供ができては、お乳を飲ましている子供に非常に悪影響が行く、だから出してしまったほうがよいとだれかに言われたのを信じてやったのです。信者として、そんなでたらめなことをしたということは、なってないです。その罪もあるのです。一つの罪ですから、よほどお詫びしなければなりません。なんの罪かというと、子殺しの殺人の罪です。そのことは言ってやりました。それからその人の信仰もぜんぜんなってないし、それを指導すべきその支部長なりがボケているわけです。この個人的秘密のほうはめったにありませんが、いまの病気のときに、一々支部長を煩<わずら>わせるということがたいへんな間違いだということを知らしたのです。だいたい自分の家族は自分が浄霊する以上、他人を浄霊して信者にするということが本当ですから、小児麻痺というようなのなら、支部長とか古い幹部に頼むということもありますが、肺炎くらいはほうっておいてもなおるくらいのものです。それを支部長を煩わせるということは、一度か二度ならまだしも、今年の二月から五カ月も支部長が行くということは、支部長もどうかしているし、片方も信者になってから二年くらいたっているのですが、どうかしてます。これではしようがないので、うまくなおるはずがありません。だから浄霊者も、風邪引きとか腹下しくらいはなんでもないが、少しグズグズしてなおらないということは、必ずなにかがあるのですから、それを発見してお詫びをするのです。お詫びをすると、それだけで浄霊しなくてもなおってしまいます。そういうことで、でたらめなことがあんがい多いのです。それでこういう注意を書いたのです。そういうことに気がつくということも、その人の智慧証覚が進んでいればすぐ気がつきます。つまり智慧証覚でそういう急所を発見しないと無駄なことをし、骨折って結果が悪いということになります。そういう場合、ちょっとしたことでも、それが非常に影響するのです。

 ついでに話しますが、以前ある人で、支部長ではあるが、将来中教会長になりそうな支部長で、その人は肺病かなにかがなおって入信したのです。再浄化が起って、それもたいした難しいものではありませんが、あんまり酷いから私も助けてやろうと思ってしてやりましたが、そのとき叔父さんかなにかが持っている支那陶器を、お気に入るか入らない物か見ていただきたいと言うのです。しかし腹の中ではどうも買ってもらいたいかで、スーッとした話ではないのです。それで、見たところが良い物ではないので、値打ちにして二、三万くらいな物です。金を出して買うのはいやだが、もらうのならもらってもよいというくらいの物です。それを言ったところが、ではと言って叔父さんの所に持って帰ったのです。本当の誠があれば、それでもぜひ差し上げたいと言うのが本当ですが、それを神様を陶器の鑑定家扱いにしてしまったのです。私はそれで、これはいけないと思ったのです。この一点でぜんぜん駄目です。明主様がお気に入った物なら、ぜひ差し上げるというのが本当ですが、そういう態度ではないのです。それから少しやってやりましたが、だんだん悪くなって、そのことがありますから、これはいけないと話してやりましたが、死んでしまいました。そういうようで、ちょっとしたことで、その人の想念と信仰の程度というものが分かります。この想念というものは徹底しなければなりません。そこにちょっとでも曇りのようなものがあっては、お蔭はいただけません。それも半年や一年ではそこまで行きませんが、もう何年もやっていて、そこまで徹底しないというのはいけません。いまの詰も、支部長なり中教会長なりがそういった理屈が分かっていないというところに、具合の悪い、おもしろくないところがあります。とにかく病気をなおすとか、その人を救うということは、ただその人を健康にするだけではないのです。健康にするとともに、立派な人間にするということが最後の目的ですから、ただ体が丈夫になって働くというだけでは人類は救えません。つまり霊肉ともに健康な人間にしなければならないということが根本です。

「『御教え集』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p242~245」 昭和28年05月25日