教集21 昭和二十八年五月十六日(2)

▽前節から続く▽

 それからハワイのほうは非常な勢いで発展しつつあります。なにしろアメリカ式ですから、やたらに手術をし、盲腸をとる、扁桃腺をとる、子宮をとる、という具合で、ハワイの人のほとんどは手術しており、それを固めてあるから、みんなビクビクしているのです。それで救世教のことが分かるにつれて、とてもたいへんなのです。ですからいま樋口さんも安食さんも寝る間もないくらいなのです。最近釆た報告をいま読ませますが、その前にその批評を書いたので、それを読ませます。

  (御論文「病人氾濫の布畦」朗読)〔「著述篇」第一一巻五一一-五一三頁〕

  (「ハワイ通信」その(四)朗読)

 大本教のお筆先に「遅れただけは一度になるぞよ」というのがありますが、ちょうどハワイがそういう具合です。つまり遅れていたわけです。その遅れていた原因はやはり日本の官憲やジャーナリストの誤解のためにこっちの準備が遅れたわけです。それからお筆先に「灯台下<もと>は真暗がり、遠国<おんごく>から解りて来るぞよ」というのがあります。日本のほうが遅れているのは灯台下だからで、お筆先どおりなわけです。それでアメリカのほうはなかなか厄介なのです。というのは『アメリカを救う』の本もできてますが、まだ向こうに発表しないのです。というのは、宗教で医学に関与するということはいけない、というような建前になっていることと、それから向こうはカトリックがさかんで、ほとんどカトリックですから、これがまた新しい宗教を非常に嫌うのです。キリスト教以外は全部邪教という具合に信じ込ませているために、救世教のように非常にすばらしい宗教とすると非常な脅威ですから、どんな妨害的行為に出るか分かりません。アメリカの偉方<えらがた>のほとんどはカトリックですから、なかなか慎重にやらないと、かえって後がやりにくくなりますから、ゆっくり発表しようと思ってます。とにかくその点においてハワイは非常によいです。ですからハワイにおいて救世教というものは、非常にたいへんなものです。いまのところはアメリカ人はまだないので、教修者はハワイ在住の日本人、それからアメリカインディアンというような黒人、それから支那人、朝鮮人というような人たちです。それで非常に素直で、実際の効果さえ見ればすぐ安心してすがってくるのです。この点が日本と非常に違います。日本はどんなにお蔭があろうと、どんなに奇蹟があろうと、よほどのことがない限り、疑いが解けないのです。それこそお蔭話にありますが、重難病が助かってありがたがっているが、再浄化とか家族の者が病気になると、やっぱりお医者に行ってしまうのです。実にわけが分かりません。それでお医者に行って悪くなって、やっぱり救世教でなければならないというので、またこっちに来て、それから信仰にはいるというのが非常に多いです。こういうような点はハワイは断然違います。そこにもっていって日本は官憲が宗教を嫌いです。信仰が嫌いなのです。

 私はときどき書きましたが、アメリカの偉い人、アイゼンハゥアー、トルーマン、マッカーサーという人たちは必ず「神」ということを言ってます。ところが日本の大臣や政治家にしても「神」ということは決して言いません。「神」と言うことは恥になるかのように思っているように見えます。そのくせ「馬鹿野郎」とは平気で言います。どうも「神」とか「信仰」というようなことを、ああいう偉い人が言うと安っぽくなるように思うらしいのです。日本という国はそのくらい信仰嫌いです。それでまたジャーナリストというのはなにか書くにしても、宗教をけなしたほうが偉く見られるのです。信仰ということを書くと時世遅れというのです。そういうことを無自覚に思われているのです。彼らの心境というのは安易なものです。それも無理がないところもあります。というのは、日本の新宗教には実に馬鹿馬鹿しいのがあります。踊る宗教とか璽光尊とか、近ごろさかんになった立正佼成会も、妙法蓮華経を唸<うな>っている格好を見たらわれわれでも嫌になります。妙法蓮華経もよいですが、それを何時間も唱えていったいなんになるかということです。一つ事をそんなに唱えていてなんになるかです。実際時間の空費にしかなりません。ですから新宗教というのはくだらないものだということになるのです。他教を悪く言うのは嫌ですが悪く言うのではなくて、ありのままを言っているのですが、救世教の人ばかりですから差し支えないでしょう。PL教団はダンスが非常に御自慢になってますが、ダンスというのは、とにかく常識から考えても、神様の前で男女が手を組んで踊るということは、どういう意味か分かりません。それであそこの根本は「宗教は芸術なり」と言うが、それはそれに違いないが、「宗教は芸術なり」ということをどういうように具体化するかというと、それはお題目ばかりで実行はありません。それでこっちのほうも「宗教は芸術なり」と言いますが、実際においてそれを現わしているのです。ですから理論と実際とが合っているわけです。もっともPL教団でもそれは知っているに違いないですが、芸術ということを具体的に現わすということは、非常に金がいりますから、できないのでやらないというのですから、これはやむを得ません。だから「宗教は芸術なり」ということは非常に結構なので、それはべつに非難することはありませんが、「宗教は芸術なり」と言ってダンス専門にすれば、ダンスが芸術ということになります。もっともこれも舞踏の芸術と言えば言えますが、どうもピッタリきません。それで新宗教のうちで一番多いのは日蓮宗です。ところが日蓮宗をやるのは結構ですが、しかし新宗教とは言えません。生長の家なども、私は前に『生命の実相』なども読んだことがあります。うまいことを書いてありますが、それも結局、キリスト教と仏教です。お釈迦さんの言ったことをうまく取り入れて、一つの説を作ってあるのです。ですからこれはふつうの宗教学としてなら立派なものですが、新宗教という新しい点はありません。つまり総合したということが新しいと言えば言えますが、それでは根本が新しいのではなくて、説き方を新しくしたというにすぎないのです。どうも新宗教と認めるということはちょっと難しいわけです。これはいつも書いてますから信者の人はよく知っているでしょうが、とにかく日本のそういうようなものを見ていると、インテリやジャーナリストが新宗教を軽蔑するのも無理はありません。もし私が、救世教教祖でなく普通人としたら、やはりそういうように新宗教を軽蔑するに違いないです。だから救世教の真髄が世間に知られていないから、こっちも十把一絡げに見られるので、これもしかたがないが、しかしやっぱり良いものは良い、悪いものは悪いのですから、これも時の問題です。その時の問題として一番良いのは、アメリカに救世教が広まって行く時期になれば、それによって日本の知識人が分かるということになり、これが一番効果的です。そうなると日本人は、アメリカで騒ぐなら、これはもう良いものに違いない、と丸のみになってしまいます。それよりか、しようがありません。もっとも神様がなさることですから、すばらしい方法をやられるに違いないから、べつに気をもむ必要はないが、だいたいそういうような経路になって行くわけです。

「『御教え集』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p226~230」 昭和28年05月16日