教集21 昭和二十八年五月十六日(1)

 信仰について一番肝腎なことは、いままで宗教ではあんまり徹底してなかったのです。仏教にしても、仏教の「教」の字が間違っているのです。お釈迦さんが作ったときには仏法と言って「法」なのです。それをどう間違えたものか、仏教という「教」になってしまったのです。ですから、佛という字は人偏<にんべん>に弓という字を書いて棒を入れるので、弗<ふつ>という字ですが、弓というのは月の形になるのです。弓をしぼったとき、あるいはしぼらないとき、これは月の形なのです。彿という字は、人間の法なのです。ですから人偏に弓を書いて霊体<れいたい>二本で貫くのです。それが法になるわけです。それで法というのはなにかというと、文字の解釈から言うとサンズイに去<さる>というのです。ですから水<みず>を去<さ>るのです。それで法というのは火で経<たて>なのです。ですから法は曲げられないと言います。つまり法はまっすぐでなければならないのです。そこで仏の「法」は月ですから水になるわけです。そうして下の「法」が火になるわけです。ですから水火ですが、これは逆になるわけです。火水が本当だが、つまり夜の世界は水が上になって火が下になるわけで、逆になっているわけです。ですからどこまでも「法」というものが根本になるわけです。それを「教」の字にしてしまったということは、一つの間違いだったのです。だからだんだん仏教がくずれてきたというのは、これは「法」の力がないからです。それで「法」というのはなにかというと、つまり乱れさせないことです。ということは、間違いはさせないということです。ですからなにごとにも法があるのです。日常生活にもチャンと法があります。これは前によく言いましたが、人間の行でも言葉でも、小さい法があるのです。ですからそれに合わなければいけないのです。要するに理屈に合うことです。神様のことは理屈に合えば良いのです。ちょっとおかしく思っても、根本が理屈に合っていればそれでよいのです。理屈に合わない点が一つの間違いになるわけです。いま話をしたのは再浄化についての一つの前提です。再浄化というのは、いったんなおったのがふたたび悪くなるというのですが、これをよく考えてみると、どんな重難病でもなおったとしますと、いままで寝たきりだったり、なにもできなかったりした人が、普通人のような行動ができるのですから、たしかになおったのです。それで再浄化というのは残りの毒素が排除されるための浄化作用ですが、そうすると最初のときよりもっと軽いのは決まってます。ところが最初のときよりも重くなって死ぬことさえあるのは、これは理屈に合いません。ではそれはどういうわけでそうなるかということを 書きましたから、いま読ませます。

  
(御論文「信仰の合理性と再浄化」朗読)〔「著述篇」第二巻五〇六-五〇九頁〕

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p225~226」 昭和28年05月16日