【 明主様 】今日はなにも話を用意してこなかったので、すぐに質問してよいです。それによって話も出てくるでしょう。
〔 質問者 〕今度の結核の御本を一般人、医学関係者に読んでもらい、忌憚のない批評を聞いておりますが、こういう質問がございました。あの御本やまた他の御神書によって、病気の原因が薬毒であり魂の曇りである、それは体的に言えば血が濁っている、血というのは霊の物質化したものだ、また霊の曇りは不純水素である、それで仮に浄霊すると不純分が浄化されて、その残渣が体外に出る、それが漿液<しようえき>の中にはいるということはあるが、その血液と漿液の関係、なぜ漿液の中にはいるかということは、ほかに御説明がないが、どう考えるか、という質問がありました。
【 明主様 】あれは説明の仕方がまだ半分なのです。あんまり細かくなってややこしくなるから、あのくらいでよいと思ったのです。血液と漿液は半分半分なのです。それで血液の不純分子が漿液の中にはいると、それは膿になるのです。赤と白がありますが、血液の中の不純分子は赤です。その不純分子がだんだん時がたつに従って変化して膿になるのです。それが漿液の中にはいるのです。ですから血液の不純分子をとると、漿液の中にはいって膿となるべき物を、それですんでしまうということになります。あれは書き足りなかったわけです。血膿と言いますが、血と膿が両方混じっているのです。血液と漿液と両方ですが、漿液のほうは膿です。血液のほうは赤い不純分子で、漿液のほうは白いのです。それは共通しているのです。血液の不純分子は白に変化して漿液の中にはいっているのです。そこまで書かなくても、あれでよいと思ったのです。
〔 質問者 〕漿液と不純分子の関係はどういうようになりましょうか。
【 明主様 】漿液は水です。それで漿液と血液は密着しているものです。血液でも水分ですから液体ですから、血液の液体の分だけが漿液になるのです。だから医学のほうで白血球が増えるということを言いますが、あれは血液の不純分子が変化して膿になったのです。膿というのは白いのです。ですからこの間の、子供の白血球が多いという病気はそういうわけです。そうしてそれがまた固まりますから、白い物が固まった物が本当の毒素になるわけです。切って膿が出るというものです。ところが固まらないで、白いままでそうとう濃厚なのがありますが、それは白血球過多症というのです。つまり変化ということを、医学のほうではまだ頭にはいってないのです。だからこう(御浄霊)やっているうちにもわずかずつは不純分子という物は白血球になりつつあるわけです。ちょうど人間の白髪と同じような物で、年限がたつうちに赤いのが白くなるというわけです。
〔 質問者 〕そういたしますと、御浄霊によって純粋の物が血液に混入するというのは、御浄霊で浄くなるという説明でよろしいわけでございますか。
【 明主様 】それでよいです。私は試したことがありますが、中耳炎のなおりかけで、穴があいて中のほうから膿が出て、毎日浄霊しているうちに薄くなって、しまいには水晶の水のようになったのです。いわゆる白血球がとれてしまって、浄い水になるのです。それで白いというのは、赤い不純分子のものでしょう。
〔 質問者 〕もう一ヵ所は「空気は水なり」というお言葉がありますが。
【 明主様 】水ばかりではないのです。ただ水のほうが多いのです。空気は水が主で霊が従なのです。ところが霊気のほうは霊が主で水が従になるのです。
〔 質問者 〕いまの白血球のお話の場合に、原爆にやられると白血球が急激に減少して、白血球のバランスがとれなくなるという原子病というものは、膿が固まってそうなるのでございましょうか。
【 明主様 】そうではありません。白血球が原爆の熱によって焼かれるのです。赤い血よりも白い血のほうが焼けるのです。
〔 質問者 〕度合いが強いのでございますか。
【 明主様 】そうです。白いというのは活力がなくなって薄くなって白くなるのです。そこで木なら、生木よりも枯れた木のほうが燃えやすいでしょう。それと同じで、白血球のほうが年をとっているわけです。それで燃えやすいから、熱によって先に燃えてしまうのです。
〔 質問者 〕肉食の害が白血球過多症を起すそうですが、肉の影響があるものでございましょうか。
【 明主様 】あります。だいたい肉というものは、食物としては年をとっているのです。いわば野菜のほうが若いのです。というのは野菜のほうが土から生えるのですから原始的なものです。それで肉というのは動物から作られるから老廃物に近いのです。ですから白いものが増えるというのは理屈に合ってます。ところで肉食は滋養があるということは逆になるわけです。これは完成した、年をとったものですから、人間が完成すれぼ年寄りになるのと同じです。赤ん坊は若いものですから、植物がそういうことになります。だから植物を食べていると、一時は栄養が少ないようだが、そのほうが粗雑なだけにまだ活力を持ってます。そこで体のためにはそのほうが本当に力が強いわけです。それが真理ですから、この理屈さえ分かればなにごとでも同じことなのです。未完成のものがだんだん完成になるという理屈が、なんにでも現われてます。そうして老廃して、それが亡びてしまって、それからまた新しいものが生まれてくる。そうしてだんだん成育して、それがまた老廃する、という具合に、循環して行くわけです。ちょうど冬から春が来て、だんだん夏になって、秋から冬になるというのと同じです。だから赤ん坊といって、できたてのほうが赤いわけです。そうして年をとるに従って白くなって、白髪になるというわけです。『結核信仰療法』の本で、いま言っただけでもたいへんなものです。
〔 質問者 〕説明に困り、まことに不勉強でありまして申し訳ありません。
【 明主様 】そこまでは説明できないのがあたりまえです。なにしろ医学のほうでは、そこまでどころではなく、ずっと手前のほうでウロウロしているのですから。
〔 質問者 〕ただ、ああいう人たちは言葉尻をつかまえてまいりますので。
【 明主様 】それから細かいことだけを言います。病気の原因は根のほうにあるのに、葉の先のほうのことを言っているのです。黴菌ということを言いますが、医学では徹底してやっているかというと、徹底してないのです。ですから黴菌というのは宙ぶらりんなのです。ですから黴菌というものにぜんぜん無関心でいるか、ずっと徹底的に根本までやるか、そのどっちかならよいのですが、宙ぶらりんなのです。だから医学というのは幼稚なものなのです。私は二〇年くらい前に「いまの医学というものは子供瞞しだ」とまで言ったものですが、それはだれにもぜんぜん分かる人はなかったのです。まあ子供瞞しです。だから心臓の手術に成功したとか、脳の手術がどうとか言って、たいへんな新発見したと新聞に出てますが、子供が自分でなにかオモチャでもこしらえて、できたと言って嬉しがっているのと同じだと言うのです。ふつうなら『結核信仰療法』を見れば、医者のほうでなにか苦情を言わなければならないのです。それがなんとも言ってこないのです。それはまあ子供が大人のことをなんだかんだ言うようなものですから、なにも言えないのでしょう。
〔 質問者 〕毒素の解消という項目で、毒素は雲のようなものだ、鱗雲なら結構だが、という所がございますが、鱗雲でもなんでも雲はみんな悪いのだと解釈しなければならないだろう、とつっ込んでまいりました。
【 明主様 】それはこういう解釈をしたらよいです。善でも、善ばかりではいけないので、悪も混じらなければならない。また悪でも、悪ばかりということはないので、善が混じっているのです。雲でも良い働きをするものがある。ですから絶対の善もなければ絶対の悪もないのです。善の中にも悪があるのです。救世教でいろいろな救いをやっているが、医学のほうの間違いを徹底すると、医者のほうでメシが食えなくなるのが出る、そうすればそれは悪です。だから全体の雲でもそういうことがあるのです。
前に人殺しということで、三宅雪嶺<みやけせつれい>の説を読んだことがありますが、うまいことを言ってます。「殺人ということもなくてはならないというのです。もしそれがなければ、いかに人を苦しめるか分からない。しかし殺人というものがあるために、人を苦しめるということがある程度でくいとめられる」ということを書いてましたが、これは真理です。あんまり酷いことをすると、もしかすると彼は自分を殺しやしないかということがあるから、ある程度で弱まるわけです。ですからそういった殺人というのは善の働きもあるわけです。