▽前節から続く▽
それからもう一つは各寺にいろいろな仏像がありますが、その仏像それぞれに、みんな霊界で修行を積んだ名僧知識の人の霊が憑っているのです。しかし憑っていると言ったところで、観音、釈迦、阿弥陀といろいろありますが、たとえてみればお釈迦さん、阿弥陀さん、観音様、聖徳太子……は観音様になるわけです。それから普賢菩薩、文殊菩薩といろいろありますが、そういうように信仰に熱心な、要するに霊的に修行した坊さんたちがそれに憑れるのです。そうして守護されるのです。ですから立派な彫刻にはみんなそういう霊がはいっているのです。そこでいままではそういう仏像や仏画を美術品扱いにされたわけですが、それは非常に苦しいのです。だからその霊を抜かなければいけないのです。しかしみんなはそういうことは知らないから、そのままでいるのです。そこで仏像をたくさん集めた人はどうも運が悪いのです。だから仏像を集めるのが嫌いな人があります。大阪の白鶴美術館の親父さんはそれを知っているので、仏像は集めなかったのです。ずいぶん良い物がありますが、仏像だけは集めなかったのです。それで良く聞いてみるとそうだったのです。九二歳まで生きましたが、そのために長生きしたのかもしれません。そういうようで仏像というものは、ただそのまま美術品にすることはいけないのです。そこでそれについていま、いろいろな高僧名僧の何上人とか何大師とか何禅師という人たちがとてもあせっているのです。これは『地上天国』に「多賀夫人の神憑り」で書いてありますが、そういうような具合で、そこでそういう仏様も元は神様であったので、それが夜の世界の間、仏に化現するのです。そうして救われるのです。ところが今度仏滅になると元の神様になるのです。これからは神様としては働けるので、仏様としては働けないのです。というのは仏の本元は月の神様で、月読尊という神様です。これは素盞鳴尊の表になるのです。月は照ったときと闇のときとありますが、照ったときが月読尊という御名前になり、隠れたときが素盞鳴尊になるのです。それで仏は月読尊の系統ですから月になるわけです。そこで昼になると月は消えますから、そこでどうしても神様のほうにはいらなければ働けないのです。そこで早く神様に返りたいのです。ところがいままで仏界で救いをされた仏たちは穢れがあるのです。穢れがあるということは、仏の教えというものは本当の教えでないから、いっぽうに慈悲で人を助けた手柄もある代わりに、いっぽう人を誤らせたことも大いにあるのです。その誤らせた罪を神様にとってもらわなければならないのです。そこでそれを私に浄めてもらう、浄霊してもらうべく急いでいるのです。そこで京都、奈良にある仏像の霊を救ってやるのです。そうして神様のほうの仲間と言ってはおかしいが、神様のほうのグループにはいって大いに働くというわけです。そうすると、あと仏像はカラッポになりますから、今度は美術品としてそれを作った芸術家の手柄を大いに輝かせるわけです。それで芸術によって多くの人を楽しませるということによって、今度はそれを作った芸術家が大いに喜ぶわけです。そういう意味の仕事を京都の嵯峨<さが>でやるつもりなのです。それであっちに行ってからすぐやるわけではないのですが、いまでもそういった仏像仏画が自然に私の所にはいっているのだから、ボツボツやっているわけですが、京都に行ってから本格的にやるわけです。それでつまりいまが仏滅から神世、神の世界になる移り変わりというときになるのです。ですからその移り変わりのときの救いです。そうしなければ人類を救うことはできないのです。結局霊的にはそういった神仏という人が支配しているのですから、仏教を救って、次にキリスト教を救わなければならないのです。キリスト教などもその弟子の偉い人というのは歴史にもたくさんありますから、そういう人たちも救わなければならないのです。それからマホメットと、この三大宗教です。それを霊的に救って、それから本当に人間が救われるというので、これが順序で、神様はそういうような順序でやられるわけです。ですから今度あっちに行ったのは、その第一歩というわけなのです。こういうことはいままでの宗教ではぜんぜん説いてありませんが、説かなかったということは、時期がこういうときに行ってなくて、やはり仏教で救ったりする時期ですからしかたがなかったのです。私はいまの移り変わりの境い目の仕事をするためだから、そういうことが言えるわけです。
▽次節に続く▽