〔 質問者 〕美術品などを拝見させていただき、非常に結構だという気持ちが霊で入りますが、あれは欲しくてしようがないという場合に入る霊とは違いがございましょうか。
【 明主様 】やっぱり同じものです。芸術の最高になるから、やはりそれだけの、人を引きつけて楽しませるだけの一つの要素と言いますか……。だからそういった良い物を作るというのは霊が高いのです。私は二、三日前に、私が画いた一〇年前の古い観音様の表装ができてきたので見ると、公平に見て、まずこのくらいうまい絵はありません。観音様もずいぶんありますが断然違います。これはだれが見てもそう言いますが、それはつまりレベルがそこに行っておれば、なにをかいてもなにをやっても、それだけの値打ちのある物ができるわけです。結局人間により人間の霊の高さです。だから磨いて霊を高くするということが一番です。
これは支部長なら支部長という人の霊の高さによって人が集まってくるということです。その人の徳というが、結局そういうわけです。これも信仰の根本は愛です。その人を助けたい、幸福にしたいという想念が強くて、そういうような、要するに良いものがたくさんある人ほど発展する、そういう人ほど光が強いから、その人の側に行くと気持ちが良いのです。それもやっぱり大乗的に考えなければいけないのです。だからつまり救世教なら救世教は金が非常に集まるというのは、なにか金儲けのように誤解する人がありますが……美術館ができてからよほど違いましたが……けれども、一人でも多くの人を救うには、やっぱりそれだけの設備機関が大きくなくては、それだけの人は救えないから、そういう意味において金はいくらでもいります。大いに欲張るというので、それでいいわけです。それで金というものを非常に軽蔑するのは……特に日本人はそうですが……それは悪い所に使うからです。金そのものが穢れているからです。しかし良いことに使えば、これほど便利な力のあるものはありません。ですから私は鉱山もやっているし、金儲けにはなかなか抜け目はありません。しかしその金は、多くの人を救うという意味において、そのほうが一人でも多く救えます。たとえてみれば、だれが見ても、立派な殿堂があり、立派な庭園がある、それでは立派なものに違いない、値打ちがあるものに違いない、と思ってはいってくれば、その人は救われます。ですから昔のように乞食坊主のようでは、その人が死んでから何年もたってからなら良いでしょうが、人類を早く救うにはそれではいけないのです。それが小乗的考えと大乗的考えの違いです。いままでは小乗的考えが多かったのです。いままで日本は経ですから、非常に階級があって小乗的だったのです。その点アメリカは大乗的ですから、なんでも金を儲ければ良いというので、ああいうように発展したのです。だからその調和はどっちも必要なのです。経も必要なら緯も必要なのです。それをうまく調和させるのが本当です。その調和させるのが救世教です。