教集20 春季大祭御教え 昭和二十八年三月二十三日(2)

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 今度『救世教奇蹟集』という本がだいたいできあがりましたから印刷にかかりますが、二、三ヵ月先に出版の予定であります。この奇蹟というものはだれがやるかと言うと、勿論神様がやられるのですが、「ではなんの目的だ」漠然と「奇蹟だ、不思議だ不思議だ」と言って驚いているばかりが能ではないので、やっぱりそういう奇蹟を現わすということは、神様のほうの大きな目的がなければならないのです。では、その目的とはなにかと言うと、霊を認めさせることです。霊を知らせることです。だから霊のほうが分かれば、「奇蹟」という言葉はなくなるのです。奇蹟ではなくてあたりまえのことになるからです。しかし霊ということを認めないから、ああいう変わった、あり得べからざることがあるのです。断崖から落ちて怪我一つしないとか、自動車や汽車に衝突して跳ね飛ばされても助かるという、あり得べからざることは、つまり霊のほうで助かるから、体のほうは大丈夫なのです。要するに霊主体従<れいしゅたいじゅう>の法則です。それは奇蹟によるよりほかに認めさせようがないのです。大病人を浄霊してなおるのは、霊の力ということですから、霊を認めさせるというために、神様は……神様が認めさせるわけではなくて、神様のほうから言えばあたりまえのことをするのです。ところが、いままでの人間で霊を認めていない人はたくさんおり、また霊を認めていても霊の働きを知らない人がほとんどです。それは宗教家とか、そういうことに関心を持っている人は、霊の実在は分かっているが、ただ霊が分かるだけのことで、ではどういう働きをするかというところまでは、まだ分かっていないのです。ただそういった霊の力が現われた場合、物質的には実に不思議に思われますから、それで不思議だという、それに刺激を受けて考える。そこで霊界があり、霊があり、霊の働きはこういうものだ、という説明を受けて、なるほどと思うということになるのです。奇蹟というのは、霊を知らせるという第一歩です。そういうことを、今度の『救世教奇蹟集』に書きました。そうして実例として一〇〇例を挙げました。病気以外のいろいろな奇蹟を七〇、病気に関しては三〇です。病気のほうはいままでのいろいろな本に出てますから、少し減らして三〇とし、合計で一〇〇例にして載せてあります。いままでに『栄光』に出た奇蹟を見直すと、実際、驚くべき奇蹟です。私はその当時読んだが、ほとんど忘れてしまっているのです。いま読んでびっくりしているわけです。ですからこれが本になって出れば、またたいへんな問題になるだろうと思います。キリストの「ビッコを歩くようにした」とか「盲の目を開けた」ということが、いまもってキリスト教のほうの一つのたいへんな自慢になっているのですが、それと比べたら、今度の『奇蹟集』の奇蹟は何倍上か分からないくらいです。これも勿論翻訳して世界中に出すつもりです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p97~98」 昭和28年03月23日