教集20 昭和二十八年三月二十六日(2)

▽前節から続く▽

 それから病気のない世界という基礎的の仕事をしながら、今度はほかのいろいろなこともだんだんにやって行きます。二三日、二四日は教育のことについて話し、昨日は政治のことを話しましたが、そのほかに経済とか社会問題とかもだんだんに知らせるつもりです。

 この教育については、いずれ救世教でも学校を作るつもりです。ところが文部省令と抵触するのです。というのは、一二歳から教育をさせるということです。いままでは早く教育をさせるために頭の良い人間が減るのです。おそらくいまの人間くらい頭の悪いのはありません。その代わり上面はばかに利巧になってしまったのです。というのは、頭が発育しないうちに使い過ぎるわけです。まあ頭脳の酷使です。なにしろ人間、生まれて七つや八つでは、まだ頭ができあがらないのです。中途半端なのです。ちょうど一〇ぐらいの人間に労働させるようなもので、あんまり子供のうちから労働させると背が伸びなくなるのです。頭もそれと同じで、頭ができあがらないうちに使ってしまうから、それで発育が止まってしまうのです。本当の働きというものができないのです。ですから一二になってから学校を受けさせて、小学三年、中学三年、大学三年の九年で卒業できるのです。それから学問も、いまはよけいな学問を半分くらいやってます。医科大学とかやってますが、それは間違ったことです。その間違ったことに一〇年も一五年も無駄な努力をしているわけです。そういうことはなくなります。それはいまこっちでやっている浄霊ですが、そういう医学というものは一〇年もたてば覚えられます。あなた方はそういうことを規則的に学校教育で教えられなくても、二、三年で分かりますから、実に簡単なものです。それから法律もいまのようなややこしい、第何百何十何条ということもなくなります。しかし聖徳太子の十七ヵ条ではあんまり簡単すぎます。それはあの時代とは時代が違いますから、もう少しよけいになりますが、いまの法律の一〇分の一くらいですみます。それから農科大学というものも必要ないのです。なにもしないで、土に種さえまけば良いのですから、農科大学ということもなにもいりません。ですからまず学問の分量からいって、いまの半分くらいですみます。それから経済学もいりませんし、税法というようなややこしいこともいりません。そうすると半分以上学問は減ります。ですから九年でも多過ぎるくらいのものです。そうなったら、学校教育は半日くらいで良いのです。半日学校に行けば、午後は遊んでいて良いのです。午後はスポーツをやれば良いのです。そういうこともだんだんに書きます。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p118」 昭和28年03月26日