教集20 春季大祭御教え 昭和二十八年三月二十五日(3)

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 それから私はいま「墳墓の奴隷」という論文を書いてます。墓所の奴隷というのですが、それはお墓にはいった人が作った宗教とか学問とか、文化的ないろいろなものがありますが、その中で役に立つものは採用して続けて結構ですが、役に立たないものがたくさんあるのです。そうすると役に立たないものをいまありがたがっているとすると、墓の奴隷になっているわけです。ところで宗教方面でもその墳墓の奴隷が多いのです。何百年何千年前に死んで墓の中にはいった人の教えとか、説いたことを、いまありがたがっているのです。それは役には立たないのです。それにお辞儀をしたところで病気はなおらないのです。それでも、なおると思って一生懸命にかついでいるのですが、それが結局墳墓の奴隷です。ですから古い役に立たない宗教を信じている人は墳墓の奴隷になっているのです。言い方は少し酷いですが、このほうが一番はっきり分かります。そういうようですから、新しい宗教と言えば救世教だけです。私がいつも言うとおり、いままであるものは私はやらない、なぜと言えば、もうやってしまったのだから必要がないのです。ただいくぶん改良することがなければならないから、それは結構だが、しかしいままでやったことがないことをやってこそ意味があるのです。そういうわけで、私のやることはなんでも新しいのです。ただ新しいといっても、前のものより良くならなければならない。前のものと同じか、それ以下のものだったら、やらないほうが良いのです。前のものより良くて新しいというものを大いに作らなければならないのです。ところが口で言えばわけはないが、なかなか難しいのです。人間というものは古いものに癖になっているのです。汚れた着物を着ているから、それは気持ちが悪いから新しいのをと言っても、まあまあと言ってほうっておきますが、それと同じようなもので、良いとは知っておりつつも古い着物はぬぎ難いものです。だから救世教はたしかに良いということは分かっていても、それにすぐ飛びつくことができないのです。しかし古い古いと言っても、宗教ばかりではないので、医学がそうです。救世教はたしかに良い、しかしいままで服<の>みつけた薬を止<や>めるのは決心がつかないということは、いままで汚れて穴のあいた着物を着て満足しているようなものでしょう。だから新宗教でも、かえってほかの宗教の古いのにかじりついて満足している人もたくさんあるのです。だから新しいものを、前のより良いのだから、早くこれを拝んだらいいだろうということも、なかなか簡単にゆかないものなのです。いま言ったように、本当に新しい宗教は救世教以外にはないのです。ほかの新宗教は形だけが新しくできたというので、内容は古いのです。ちょうど、救世教は新規に揃えた着物ですが、ほかの宗教は色抜きをして、染め返しです。これはここだから言えるのですが、新宗教のほうに分かるところではあんまり言えません。そのつもりで、ただ心の中にしまっておけば良いのです。「君はたいへん良い物を着ているが、それは古いのだよ、染め返したようなものだよ」と言えば怒ります。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p114~115」 昭和28年03月25日