教集20 春季大祭御教え 昭和二十八年三月二十五日(2)

▽前節から続く▽

 それからだんだんに政治、経済、教育という方面にまで革命するつもりでいます。結局救世教の目的というものは、世界の文化を革命するということです。それで政治について、この間こういう話があったのです。これは信者の人は知っているでしょうが、信者で衆議院議員三人と参議院議員の人が一人いましたが、毎月一六日にその人たちと質疑応答をやることになっているのです。政治界のことや社会のいろんなことを知るうえにおいて参考になりますし、先方もまた現界の知識ではなく霊界の知識をたいへんに得ますから、おもしろいのです。私はそのときこう言ったのです。なにしろいまの政治というものは見ていられない。それで政党を作ってもいいが、その代わり信者で代議士が三〇人以上できれば政党を作ると言ったのです。私が総裁になるわけではないが、だれかを立てて、その人を総裁にしてそうとうにやってもいい、その代わり無論選挙も別に変なことはするはずはないが、ただ印刷物をもって政見発表をするのです。あとは地域的に演説をするという、それだけで、ほかの不正なことは絶対にしないのです。そうして政党として行動する場合、間違った政策とか情実ということは絶対にしません。徹頭徹尾公平です。ですから反対党のほうでも説が良ければ賛成するし、それから政府の案でも、絶対に国家人民の幸福になることなら賛成するというようにして、要するに模範的な政党にするのです。それが本当に分かれば第一党になるかも分かりません。なんとなれば人民のほうで、「だれに投票しよう、どの党が良いだろう」という場合に、何党にしても安心のゆくものはないのです。「どうせ蔭ではなにかやるに決まっている、政権を握っても蔭ではなにをやるか分からない」と、絶対に信用のできるものはないのです。しかしもしこっちのほうでやるとすれば、すべて安心のできることをやるから、どうしてもこっちの政党に多数が投票することになるから、かえって非常に多数の投票がはいって、あるいは第一党になる時期が来るかもしれないと言ったら、大いに共鳴してましたが、あるいは実現するかもしれない、というよりか、実現するでしょう。そうなれば本当に良い政治ができるわけです。いままでは間違っていたのです。それで本当言うと選挙だけでは駄目なのです。いくら宗教がいばったところで、とにかく政府が監督しているのですから、政府が良い政府なら良いが、もし間違った政府なら、その宗教をやっつけるのはわけはありません。いまは民主的になったから良いが、終戦前は政府のほうでは、ただ好き嫌いで決めてしまうのです。「あいつはどうも虫が好かない、ではやっつけてしまえ」と、なんでも実に危ないものです。そのくらい宗教には力がなかったのです。これはむしろ古い時代には宗教のほうがずっと権威を持っていたのです。それは坊さんというとたいへんな権威を持っていたのです。昔の坊さんというものは、天皇とか将軍、公方<くぼう>様よりも上におかれていたのです。ですからなにかの場合に坊さんの言うことを聞いたり、坊さんの二言で決まったりするのです。なにしろ元寇の乱のとき、北条時宗が禅宗のそのときの有名な坊さんに教えを乞うて決心したという話がありますが、そのくらい尊ばれているのです。ところが明治以後の今日では、非常に値打ちを下げられたのです。しかも新宗教とくると、まるでインチキもののように見られ、いまもって一般から軽蔑されているわけです。だからいくら宗教が良いことをして、無神論者に神を認めさせようとしても、政府が手伝わないどころか、むしろ無神屋のほうに味方しているくらいですから、こういうものをだんだん直さなければいけないと思います。だからあるいは神様のほうでは政治まで改革されるかもしれません。なにしろ、いかに宗教が情けないかということは、いまは宗教は政治に関係しては絶対にいけないのです。最近はだいぶなくなってきたが、私が前に『光』新聞をやっていたときに、政治についてちょっと書いたことがあります。そうすると、政治には絶対に干与するなということを注意されたことがあります。しかし宗教家とは言えども政治家の政治の下にいる以上、社会人と同じで、政治に対して非難しても良さそうなものですが、いけないのです。ですから私は、書きたいときには寸鉄でいくらか気を吐いたわけです。それは宗教が政治に干与して非常な悪影響を及ぼしたということは西洋にはあります。それはローマ時代にはたしかにあるが、日本にはそういうことはいままでにないのです。それを直訳してしまって、そうして政治に干与すべからずということになったのだと思います。だからなにか方法をもって、宗教の一つの権威というものをだんだん作らなければならないのです。それにはやはり科学の上に行かなければならないのです。それで私は始終科学のほうが宗教より下だということを唱えているのです。ところがそういう考えを持つ宗教家はいないのです。なにしろみんなが病院を作っているくらいですから、科学に負けているのです。しかしこっちはこれから、科学を下にするというような仕事をして行くわけなのです。それで『結核信仰療法』なども、やはりその一つのものなのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p112~114」 昭和28年03月25日