教集20 春季大祭御教え 昭和二十八年三月二十五日(1)

三月二五日

 もうたいていな人は見たでしょうが、『結核信仰療法』はまだいくらにもならないが、だいぶ出そうです。あれを関係者の人が見たら、ずいぶん驚くだろうと思います。御神業というものは、やはり霊的の戦なのですから、いままで長い間、なにしろ敵はなかなか大きいし力があるから、それで負け戦だったのです。始終こっちが負けどおしで手も足も出なかったのです。それが、やられやられしながらも、だんだん力が出てきて、今年からいよいよ勝ち戦になったのです。それで『アメリカを救う』と『結核信仰療法』という武器がこっちにも大いにできてきたのです。それで『結核信仰療法』の本は原子爆弾です。この爆弾で医学のほうは息が止まってしまうのです。しかしなにしろ相手はまだたいへんな力を持っています。しかし力を持ったところで真の力ではないので、ただ形だけのもので内容は空虚なものなのです。そこであれを見たら黙ってはいられません。なんとかこっちに質問するとか、反抗しなければならないわけです。それでこれからだんだん、医師会とか、また当局のほうでも大いに考えて、智恵をしぼって、「救世教の奴は太い奴だ、なんとかやっつけてやらなければならない」というような相談が起るだろうと思います。なぜならば、あれで向こうが沈黙していれば黙認したことになります。容認したことになりますから、それではたいへんです。医学が負けてしまいますから、なんとかしなければならないと思って、よりより、ずいぶんと相談したり考えたりするに違いないです。そうかといってこっちは実際ですし、あの一〇〇の例を見れば、なんとも言えません。そこで結局において、黙って我慢してしまうよりほかにしようがないだろうと思います。そうすれば神様のほうが勝ったわけです。つまり科学と宗教との戦いですが、宗教が科学に対して勝つわけになりますが、ここにたいへんな意味があるのです。というのは、いままで宗教は科学に負けていたのです。だから宗教は始終科学から非難されたり軽蔑されたりし、また世の中の人も宗教、特に新宗教は迷信と片づけて、科学でなければいけないと、なんにでも「科学的」という言葉を使うと、それが立派に見え、信用できるようにみえるのです。科学というものを頭につければ、それで信用するのです。だからなにかというと「それは科学的でないから駄目だ」と言い、「これは科学的に見てこうだ」と言うと、たいへんに立派に見えるのです。「それは宗教的だ」と言うと、もう迷信臭くなって、なんとなく軽蔑してしまうのです。そういう状態だったのです。そこで私は「科学が迷信だ」ということを唱えるのです。しかしそうは言うものの、それにも理屈はあるのです。実際いままでの宗教は力がなかったのです。科学より力がなかったのです。そして結局戦いは力ですから、力の強いのが勝つのです。これは殴り合いと同じで、力のあるのが勝つのです。ただそういう肉体的力の暴力でなく、要するに霊の力です。霊ですから、いままでのふつうの戦いの勝ち負けとは違うのです。ところがいままでの宗教は霊の力がなかったから、科学つまり体に負けたのです。まあ、霊主体従<れいしゅたいじゅう>であるべきのを、体主霊従<たいしゅれいじゅう>であったのです。それで今度こっちは霊主体従の実<じつ>を示すのです。そこで科学に向かって挑戦し、そうして科学が宗教に負けるという結果になるのです。だからいまやり出したああいう本の意義というものは、たいへんなものです。いよいよ宗教が科学より上だという実を見せるわけです。ですから医学のほうの説というものは、実に曖昧<あいまい>極まるものです。今朝もラジオの「第二放送」で喘息の話が出てましたが、はっきりとしたことは言えないのです。その喘息の原因がいろいろありますが、滑稽なのは檜木作りの家にはいると間もなく非常な喘息の苦しみが起ったというのです。そこでだんだん調べてみると床に米松<べいまつ>を張ってあったのに気がついて、これだなと思って、それから床板をほかの板と取り替えたのです。それで良くなったというのです。これが喘息の原因なのです。またこういうのがあります。日本はまだ良いほうですが、西洋では壁の色が影響するというので、いろんな色を塗って、べつにたいして苦しみがないと、この色が良いということになるのです。われわれからみると、まるで茶番です。そんなに情けない医学です。だから今朝の放送を聞いても、お医者さんもうまいことを言ってます。「この薬で、この注射をするとなおることになっている」と言い、なおるとは言わないのです。また「この注射をすれば効果はあるのだ、しかしこのためにかえって悪くなる人もたまにはあるから、これでなおるとは安心はできない」という言い方です。医学を子供とすると、こっちは横綱のようなものです。片手でひねり出すくらいの力があります。しかしそれだけなら良いが、そのために何万何十万何億の人間がその被害者になって命まで取られてしまうのですから、これはたいへんな問題になりますから、どうしても救わなければならないのです。実にかわいそうなもので、お蔭話などを見て、いつも涙がこぼれるくらいです。あまりに酷い目にあってます。それを世の中の人の一人でもよけいに知らせなければならないのです。そのために今度いろいろな本を出したわけです。それから自然栽培にしても理屈は同じようなものです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p109~112」 昭和28年03月25日