▽前節から続く▽
宗教でも、いま新しい宗教の説を唱える宗教家、学者はないのです。みんな古い釈迦とか孔子とか、日本では親鸞上人の歎異抄<たんにしょう>とか、日蓮上人の御文書とかの古い物を引っ張り出していろんな解釈をしてますが、もし人間が進んでいるとしたら、もっと新しい物が出るはずですが、そういうのはないので、古い物の解釈をしているのです。またそういう古い物を解釈する学者が偉いとされているのです。それは上面は偉いに違いないです。そこで救世教のやるのは上面でなく、昔の人がやったことより、もっと深い所をついているのです。医学、農業でもそうなってくるわけです。ほかの宗教というものは本当からいうと古いのです。古い物を一生懸命にやっているのですから、新しい点はないのです。ですから新宗教というのは救世教だけなのです。ほかの宗教よりか新しいから新宗教と言うのですが、ほかのは新宗教と言っても、やることは古いのです。古い開祖の教えを取り上げるということを非常に良いとしているのは、いかに古いかということが分かります。ですから私がいつも言うとおり、いままでだれかがやった古いことは、やる必要がないのだから、私がやることは、だれもやらないことだけをやる、というのはそういうわけです。名前は忘れましたが、イギリスの学者でうまいことを言ってます。いまでも覚えてますが、「大衆は墳墓に支配されている。それで墳墓に支配されない人は上手な偉人だ」というのです。ちょっとおもしろいと思います。いまのほかの宗教は墳墓に支配されているのです。それで私はその墳墓に支配されることをしないで、墳墓から抜け出るわけです。新しい墓と言っては変ですが、これから新しく作る墓でしょう。そういうようにして文明は進んで行くのです。だから墳墓に支配されている人の中にはいって、こっちが支配されないと、墳墓連中が非常になんだかんだと言うのです。新しい先駆者というものは必ずそういう悩みがあるのですが、これはしかたがありません。しかしガリレオやコペルニクスのように、自分が生きているうちにそれが肯定されないで死んでしまうのは気の毒ですが、こっちにはそういうことはないのです。実際においてそれだけの効果を現わしてますから、それだけ良いのですが、新しいことをみんなに承知させ、その墳墓の支配者から、その支配の力を薄くするという仕事です。ですからたいへんなことなのです。しかしそういうことは、すばらしい神様の力でやれば、たいへんなことでいて、割に楽に行くのです。その話はこのくらいにしておきます。
▽次節に続く▽