教集20 春季大祭御教え 昭和二十八年三月二十四日(1)

三月二四日

 救世教もいままでは長い間、邪神との戦いだったのです。それでやっと、戦いなら勝ち戦<いくさ>の時期に一歩はいってきたという形なのです。それでこれからだんだん勝ち戦になって行きますから、日がたつに従ってだんだん発展して行くという時期になってきたわけです。

 今度の『結核信仰療法』は原子爆弾です。つまりこれに対して向こうではこれを防ぐ武器がないのです。従って大きな問題になるだろうと思ってます。たとえてみれば「医学が結核を作る」ということや「結核は感染しない」というそれだけでも、医学としたらたいへんなことを言われたわけです。だから、もしそう言われて黙っているとしたら、認めたことになりますから、どうしてもそれに反駁<はんばく>しなければならないのです。そこで反駁するにはあれを壊すだけのそれだけの理由を作らなければならない、ということになります。ところがおそらく、その理由を作ることはできないわけです。というのは、一〇〇の例を見れば、もうどうすることもできないのです。あれは事実であって、「このとおり本人が言うのだ」というのを一〇〇も並べてあれば、こっちの説を反駁するということはとうていできないのです。反駁できないから黙っていなければならないが、黙っていれば承認したことになる。ですから、もしあの説が世の中に拡がって行くとすれば、医学は当然、カブトをぬがなければならないことになります。そうすると大問題です。そこでなんとかしなければならない……なんとかするどころではない、どうしてもこれを防ぎ止めるか、救世教をやっつけなければならない、ということになります。そうかといって、やっつける方法はない、というジレンマに陥ってしまって、だんだん医学のほうは押されて行きます。アイゼンハゥアーではないが、押し返し、巻き返し状態になって行きます。そうすると政府でもほうっておくわけにはいきません。これはどっちかに旗を挙げなければならない、ということになります。そうすると、いままで政府が援助してきて、いまもって大いに奨励し援助している医学が形無しになっては、政府の面目にもかかわるから、どうしても救世教をやっつけなければならない、といったところで、ぜんぜん歯が立たないのです。ちょうど子供が横綱に向かうようなもので、ぜんぜん勝ち目がないのです。そこでどうするかということは興味ある問題です。まあ、いざとなれば私が大病院に行って大勢の患者をやってやり、目の前で見せてやります。それから博士などが束になっての質疑応答を、私が直接やってやり、良く説明してやります。そこまでいけば結構です。ちょうどマッカーサーがミズーリ号の上で講和条約をするようなもので、医学のほうは日本で、私のほうはアメリカというわけになります。そうなれば無条件降伏です。結局そこに行くよりしかたがありません。そこに行って初めて人類は救われて、病なき世界ができるのです。こっちには神様がついていて、原子爆弾を持っているのです。ソ連にも原子爆弾はありますが、医学のほうには原子爆弾はないのです。ですから戦争よりもこっちのほうがもっと勝ち目があるわけです。ただそこに行くまでに、一波乱があるだろうと思ってます。たいへんな問題になります。日本だけでもそうですが、こっちは日本だけでなく、世界中をやるのです。『結核信仰療法』の広告に「医学への挑戦」ということを書いてあるが、私は遠慮してそうは書かなかったが、だれかが書いたのでしょう。しかし書いてみれば、嘘ではないので本当ですから、そのままにしておきました。たしかに挑戦なのです。神と悪魔の戦い、正邪の戦いです。これで勝てばミロクの世になり、負ければ魔の世界になります。しかし向こうは九分九厘でこっちは十ですから、無論勝つに決まってます。そういうようで、たいへんな問題を提供したわけです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p103~」 昭和28年03月24日