教集20 昭和二十八年三月十六日(1) 

三月一六日

 いまの問題は吉田内閣の瓦解<がかい>ですが、これで思い出したことは、昔「笑冠句」をやっているときに、一番傑作だと思ったのは「馬鹿野郎、良く考えりゃオレのこと」というのがありましたが、これは『笑の泉』に出てます。これが今度の吉田さんに実によく当てはまっていると思います。とにかく直接の動機はやっぱり「馬鹿野郎」問題です。このことから急に吉田内閣に対する非難がわいてきたのです。それでほかの問題なら国民もさほど悪くは思いませんが、あれだけはどうしても国民としても我慢ができないのです。私も、これはもう吉田さんは止<や>めなければならないと思ったくらいです。なんとしても「馬鹿野郎」問題が致命的なものです。それでも吉田さんは取り消しという、なまぬるいことをしないで、謝罪をすればいいのです。そういうところに、ああいう問題に対しての吉田さんという人の良心、正義感がないということをよく証明してます。とにかく、いやしくも相手が国会議員ですから、国会議員というものは選挙人が、一人の議員にしろ、何万人という人が投票を入れたのですから、「馬鹿野郎」と言えば、国民を「馬鹿野郎」と罵<ののし>ったと同じことになります。そうすると国民感情からいっても我慢できないわけです。しかも一国の総理大臣とも言われる人が、神聖なる国会議場で「馬鹿野郎」と言うに至っては、どうしても言い訳のしようがありません。だからどうしてもお辞儀をするよりないのです。それも、反省して「自分はうっかり間違ったことを言った、どうか許されたい」と言って、自分の非を覚ったということが大いに現われなくてはならないのです。それが単に取り消しですから、取り消しというと、なにか言い損ないだとしか思えません。「間違って言った、だからこれは取り消す」というのならいいが、そういうことではなくて、国民に向かって「馬鹿野郎」と言ったこと、神聖なる議場を穢したということに対する罪の反省の現われでなくてはならないのです。それが少しもないところを見ると、吉田さんという人には良心がない。善悪の区別さえつかないということになり、それでは一国の秩序を預けることは危なくてできないということになりますから、実にまずいです。そうすればやっぱり「馬鹿野郎、良く考えりやオレのこと」ということになります。人を馬鹿野郎と言うどころでなくて、むしろ御自分が馬鹿野郎だったのです。「笑冠句」にはいろんなことがありますが、よくそれに合うことがあります。しかし、今度のことぐらいよく合ったことは珍しいです。ですから笑冠句というものは一種の哲学です。馬鹿馬鹿しいようなことであって、それで非常に深い意味があるのです。だからあれは大いに読んだほうがいいです。「ずるい奴」という題で、「袖の下で交際をするずるい奴とずるい奴」というのがありますが、これはいまの贈収賄問題などを一言にして喝破してます。「ずるい奴、自叙伝をみな逆に書き」というのも、よくありそうです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p83~85」 昭和28年03月16日