教集20 昭和二十八年三月十五日(5) 

▽前節から続く▽

 今度のお蔭話で、『栄光』に出しますが、そういうようなことに関して九州の坂井さんの話ですが、いろいろな例があります。病気で、浄霊でどうもうまくいかない、それで気がつくと、私の書いたものとか『栄光』新聞というものを調べると、ふつうの日刊新聞の下にあったり、はさまったりしているので、これだなと思ってとると、病人が良くなるというので、実にはっきりしているのです。

 それから私の書いたものですが、これはまた凄いのです。その上にほかの物がのっていたりすると、とてもわけの分からない苦しみがあるのです。昔、私が宝山荘にいる時分に、その部屋がどうも気持ちが悪いのです。私も気持ちが悪いし、だれでもがそうなのです。それでその部屋に行くと、みんな病気みたいになるのです。それでおかしいと思ったが、どうも分からないのです。ところがほかの人からもらった、ふつうの人間が書いた色紙が柱掛けにかかっていたのです。それで気がついて、それをとってみると、その裏に私の色紙がはいっていたので、これだなと思ってそれを外したら、それですっとしたのです。今度のお蔭話にいろいろ書いてありますから読めば分かりますが、これは大いに注意することです。それで病気になって幾日もなおらないのですが、分かってみると、すぐなおってしまうのです。よく子供の病気などであります。それはなにかというと、順序が違うからです。ですから私は家にいても『栄光』新聞は決して下におきません。それから私の書いたものとか写真は決して下におきません。それは人ばかりでなく、私自身もなんだか気持ちが悪いのです。ですから順序くらい軽くみることができないものはありません。これはやかましく言いますが、前にも話したとおり、部屋に坐るにも順序があります。ところが、これもよほど考えてやらないと、無頓着ではいけません。以前に、ある浄霊する人に、浄霊者はどうしても床の前に坐って、受ける人は次というか、床の前を離れて坐らなければいけないと言ったところが、その人はそれを直訳してしまって、初めての家で、信仰などぜんぜん知らない所で、だれがいようといまいが、床の前に行ってしまうのです。それでそこの親戚がいて「あの先生はなんて無礼だ、人の家も自分の家もわきまえない」と、誤解されたのですが、これも困ります。そういう場合には、そのとおりにやってはいけないのです。そういうときには、人から変に見られないように、患者よりも下座にいる場合もありますが、そういうときは神様はお許しがあります。そうして床の前に行ってもおかしくないというときには、行ってやったほうが良いです。部屋は奥ほど上座です。それから左のほうが上座です。それを臨機応変にそのときに応じてやることです。ですからなにごとにおいても順序が肝腎なのです。これはやはり大自然を見習うのです。どんなになっても、梅より桜が先に花が咲くことはないので、やはり大自然には順序があるのです。ですから大自然を見習うということが信仰の根本なのです。自然農法にしても浄霊にしても、根本は大自然です。ですから順序というものは大自然を見習うことで、間違いないわけです。

△御講話おわり△

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p82~83」 昭和28年03月15日