教集20 昭和二十八年三月十五日(3) 

▽前節から続く▽

 それからもう一つはそうとう先に行ってから本を作りますが、それは変わった本です。私は始終花を生けていますが、自分でも良いなと思うのがときどきあるし、見る人も褒めるのです……それはお世辞でなくです。それで自分で気に入った花ができたときに天然色写真に写して、それを本に作ろうと思ってます。というのは、近ごろは変な花がはやってきたのです。それから、花にしても殺してしまうのです。そのために形は良いが、うま味がありません。それと、絵なら死んでいて、筆勢というものはないのです。そこで私が生けるのは五分以内です。早いのは二分以内です。それで花は庭で切ったのがいいですが、しかし花屋で買ったのでも、それを手にとってパッと生けるのです。そのやり方が非常に良いのです。また草物でも、何本もまとめておいてスッと生けるのです。そういう生け方がいまはないのです。もっとも花の先生というのは一つの型を決めていて、近ごろはだいぶなくなってきましたが、やはり流儀とか、その先生の一つの形のために、どうも自然を殺してしまうのです。ところがそれでは本当のものではないので、要するにどこまでも自然の良いところを生かし、表現することです。そういう一つの花の生け方の革命というものです。それから花器との調和があります。それからやかましく言うと、床の間の大きさ、壁の色、掛物にマッチしなければいけないのです。そうして床の間全体が一つの芸術というものにならなければいけないのです。私などもと
きどきそういうことがあると、昔の名画でも見るような感じがします。その代わり、上手な掛物でなければ駄目です。絵もやはり本当の名人が画いた物でなければなりません。というのは、花に掛物が蹴られてしまうのです。ですからよほどの名人の物でなければならないのです。それで絵は絵、書は書、それに花器と花がピッタリと合わなければならないのです。ですからそういった意味で一つの花の芸術といったものですが、これはどうしても見せるよりしようがないのです。そこで天然色写真を写す人間が、上手<じょうず>というほどではないが、工夫しているので、それにやらせようと思ってます。これも事は小さいが、そういうことの一つの革命的のものです。ちょうど世の中は逆になっていて、花に絵の具を塗ったりして人工的になってくるのを、私のほうはその道の、できるだけ自然的にするというのです。やはり自然農法と同じ理屈になります。そういう本を作ろうと思ってます。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p80~81」 昭和28年03月15日