昭和二十八年三月一日 垂録18 (5)

〔 質問者 〕名古屋のほうの天理教の教会では、一〇〇〇人以上の勤労奉仕者が集まって第三次戦争のための防空壕を作っているそうでございます。宗教家として解釈に苦しむことでございます。

【 明主様 】それは、大いに先見の明ありという御自慢なのです。信徒だけでしょうが、天理教にはいればそういう逃げ場があるという、ひとつの呼び物にしようというわけですが、ごく低級な考えです。だから神様の御守護はもう信じられないというわけですが、まあそういうようなものでしょう。

 

〔 質問者 〕新宗教の最である天理教にしてそのようですから。

【 明主様 】そうです。この間も出てましたが、主人をよみがえらせるというので、三月の間、死骸をそのままにしてお願いしていたのですが、警察で知って調べてみたらミイラになっていたというのですが、それはむしろ恐ろしい迷信です。

 ですからとにかく救世教を邪魔するのは新宗教です。だから新宗教などにはうっかりはいれないという、ひとつのたいへんにマイナス的働きをしていたのです。だからジャーナリストとかインテリというのは軽いものです。新宗教が邪魔するのが一番怖いのです。それから『読売』に出てましたが、踊る宗教で、自分の腹には天照大御神がいると言っていばって、往来に出て踊ったりしているのをニュース映画で見ましたが、ああいうことをしなければならないというと、新宗教は低級なものだ、本当に愚夫愚婦を瞞すものだというわけで、新宗教の不信用を起すのです。それをありがたがってやっているのですから、これがたいへんな妨害です。しかし結局時の問題で、良いものは良いし、悪いものは悪いし、変なものは変なのです。それで救世教だけは違う、これこそ本当の宗教だということがだんだん分かってきます。近ごろはだいぶ分かってきました。さっきも言ったように『東京日日』に出るということは、そうとうに理解しなければ、そういうことはしないでしょうから。

 

〔 質問者 〕だいたい天理教は病気なおしで名をあげたのでございますが。

【 明主様 】そうです。病気なおしで発展したのです。

 

〔 質問者 〕それなのに病院を経営しているのでございますから。

【 明主様 】それは病気がなおらなくなったからです。昭和六年六月一五日から病気がなおらなくなったのです。それは先方から「近ごろ病気がなおらなくなった。教祖の時代にはだいぶなおったが、どうも不思議だ」というので、「それはこういうわけだ」と言うと、「なるほど」と言ってましたが、そういうことがありました。それでいつも言うとおり夜の時代の間は月の神様の守護で、天理教は月の神様だから、そこで一列揃って甘露台へと言うのです。それで甘露台というのができており、そこにお皿かなにかを上げてあり、そこに月が出た晩に雫が溜まると、それを月の甘露といって、信者に少しずつやって、それを病気のときにのむのです。近ごろはそれをやらないが、最初のうちはやってました。それを甘露というのですが、そこで一列揃って甘露台へ、と言うのです。この甘露というのは月です。太陽だったら露は乾いてしまいます。月の雫ですから、月の光で病気はなおっていたのです。ところが太陽がだんだん出てきたから、月の光は消えてしまうから、病気がなおらないのです。それで救世教のほうはだんだん病気がなおるということは、太陽がだんだん昇ってきて火素が増えるからです。だから夜の世界から昼の世界になるということは、そういう点で一番良く分かります。だから年々良くなおるようになるのです。それは日が昇ったからです。前に天理教の青年会で「月日<つきひ>クラブ」というのがあるので、私はなぜ「日月クラブ」としないかと言ったのですが、月を上にしているのです。「なぜでしょう」と言ってました。

 それで「ツキ」というのは「ツルギ」ということです。「ツルギ」を縮めると「ツキ」になります。それで三日月が本当の月の形です。これは剣の形をしてます。それでいままでも天理教では、「信仰を離れると一家死に絶える」ということを言うのは舌の剣です。これでおどかすのです。強迫信仰です。そういうのはみんな「ツキ」の働きです。それで「日」というのは「ヒク」です。これは天理教でも、「月」は「ツク」で、「日」は「ヒク」と言ってます。それで日というのは引く意味になるから、おどかさなくても、慕って集まってくるのです。だから救世教では決しておどかしてはいけないと言うのです。なぜなら自然に集まってくるのです。それは引く力というわけだからです。

 私は伊都能売<いづのめ>ということを言いますが、伊都能売というのは日と月のちょうど両方になっているのです。そこで明主の「明」には日月をつけたのです。それで字からいっても、日は四画で月も四画ですが、四と四は八になり、八は五、三、火と水で、伊都能売ということになるのです。ですから言霊<ことたま>と文字の解釈だけでも分かるのです。それで富士山は一名八スの山<ハチスのやま>というのですが、そうすると「明」は八ですから、富士山は「明」になって、「ス」というのはまわりのチョンです。それで八で開いて統一されるということです。ですから富士山というのはそういう意味で、これはたいへんなものです。やはり世界の本当の中心です。ですから字で書くと富士(不二)で、二つとないということで、一つしかないということです。それで私は落款に富士山を書いたのです。いままで富士山は雲に隠されていたのです。そこに私が出て雲が晴れていくのです。

「『御垂示録』十八号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p53~56」 昭和28年03月01日