教集19 昭和二十八年二月二十七日(1) 

 自然栽培の昨年の報告がだいたい集まったので、今度「特集号」を発行します。一昨年、昨年も「特集号」を発行して、今年で三回目ですが、理論はたいていいままでに発表してありますから、いままで発表しないようなことで、今度の報告を見た感想とか注意というようなものを書いてみたので、それを読ませます。

 (御論文「自然栽培に就いて」朗読)〔「著述篇」第一一巻四一八-四二四頁〕

 これについておもしろいことがあるのです。いままでの報告では佐渡が一番良いのです。佐渡だけは初年目から少しずつ増えているのです。ですから信者でない農民もそれをまねして、いまどんどん増えているのです。ですからいまも読んだとおり、佐渡だけは一〇年以内には全島自然栽培になるだろうと思ってます。では、どういうわけで佐渡ではそんなに成績が良いかというと、佐渡の人は浄霊をしないのです。これはおもしろいのです。少しはする人もありますが、だいたいはあんまりしないのです。これが神様の思し召しにかなっているのです。ところで「浄霊をしなければ良くできない」というように思わせることがたいへん悪いのです。なぜかというと、そうすると「信仰にはいらなければならないから、もう少し考えよう」ということになるのです。それでは普及が非常に遅れます。だから「信仰にはいらなくても肥料さえやらなければ良くできる」ということを思わせるのです。そうすると「ああそれではわけないから」というので、どんどんまねするようになります。そうするとそれだけ増産になりますから、早く効果があるわけです。だから浄霊をして、それを知られるということが、たいへんに普及のお邪魔をしているわけです。というのはそういう考えは、信仰したほうが良くできるというのを見せて、信者を増やそうという考え方ですから……悪いことはないが……その考え方が小乗的なのです。だからいまも読んだとおり、浄霊するのは肥毒を消すためですから、せいぜい日に二、三回くらいで良いのです。よくお蔭話などで何回もやる人があります。外出したときと帰りがけには必ずやるというようにして、そのために隣り近所の百姓がみんな嘲笑したり、いろいろ言ったりしてます。ところがむしろこれによってできるのだ、ということを見せびらかしてやってますが、それはたいへん間違っているのです。それで浄霊は肥毒を消すのだから、肥毒の強い所はやっても結構ですが、なるべく人に知れないようにするのです。それは夜やるのも結構です。そうすると間違えて、魚カスや油カスをやっているのだと思うでしょうが、それは神様のほうの油カスというわけです。そういうように、なるべく人に知れないように浄霊をするのです。それも日に二、三度でたくさんです。それで浄霊をしなくても立派にできるのです。ただあんまり肥毒の強いときには、人間の薬毒と同じですから浄霊すれば消えます。肥料というのは薬毒と同じなのですから。

 それからもう一つは、稲田に草葉の堆肥を入れる人がよくありますが、これはたいへん間違っているのです。それでどうも土そのものが肥料だということを忘れがちなのです。このごろはだいぶ分かってきたようですが、最初のうちは草の堆肥をたくさん入れて、そのためにできなくなったことがあります。ですから本当から言うと、堆肥もなにも入れないで土ばかりでやるというのが本当で、それが一番良くできるのです。結局はそうなります。それで畑なども土が固まるのを防ぐために堆肥をやるのですから、土が固まらなければ、堆肥の必要はありません。それで土も年々無肥料栽培でやって行くと固まらなくなります。土がそういうようになって行きますから堆肥の必要はなくなります。それでみんな、どうも堆肥に肥料分があるように思ってならないのです。それはいままでの肥料迷信が残っているのです。とにかく自然栽培のやり方というのは、一番手数がかからないで楽なのです。それがいいのです。どうも人間は面倒臭いことや、ややこしいことをしたがる観念がありますが、そのために成績が悪いのです。ですから一番手数がかからないで楽なやり方ほど良いのです。

 そこで今度一番とれたのが岐阜県の人で反一八俵というのです。しかしこれがちょっとまずかったことは、田を三つの区域くらいに分けたのです。それでその米をみんな一緒にしてしまったのです。ですから平均して一二俵いくらかになりましたが、それでもすばらしいものです。そのうちの一区画の所だけが非常に良くできたのです。そこで、そこの箇所の推定ではどうしても一八俵だということになったのです。とにかく正確にやらなかったのは遺憾ですが、来年はちゃんとするでしょう。それで毎年『朝日新聞』で米の多収穫の日本一を競争してますが、今年の一等は四国のほうの人で一五俵三斗三升二合というのです。それでそこに私のほうの信者の人が調べに訪ねて行ったのです。ところが競争するのは、また別なやり方をするのだそうです。それでこの収量は今年だけであって、来年はずっと落ちると言うのです。別なやり方というが硫安とかをうんと使うのです。ちょうどヨッパラッて顔色を良くして威勢良く踊るようなもので、たいへん元気はある、というような理屈なのです。それでああいうものは一時的に効果があるから迷わされるのです。「来年はずっと落ちるから止<よ>す」と、本人が言っていたそうですから間違いないでしょう。しかし自然栽培でできたものは年々増えるのですから、ぜんぜんわけが違います。来年は、いまの岐阜県の人も『朝日新聞』に出すことになってます。

 それからもう一つは、今度の「特集号」に出しましたが、一番古くからやっているのは去年で六年目になりますが、付近の田から見ると六割以上増えているのです。私は「五年で五割増産」ということを言ってますが、六年目で六割以上ですから、まず「五年で五割増産」ということは実現したわけです。こういう例は本当に事実が現わしたのですからたいへん良いです。そういうようなわけで、とにかく間違いないということが立派に分かったのです。だいたいこういうことは分かってはいますが、本当の事実……と言うと変ですが、このとおり間違いない結果が出た以上、これを早く日本中に分からせて、大いに食糧問題を解決しなければならないのです。なにしろこのために、私の推定ですが一年間三千億円は違ってます。ですから全国的に自然栽培にすれば三千億円はプラスになるのですから、これをできるだけ普及しなければならないと思っているのです。

 それで今度「自然農法普及会」という会を作ったのです。まずだいたい一村一ヵ所の支部という目標です。それで調べてみると、村というのは、日本中にだいたい一万何千かありますが、本当の農村でなくいろんなのがあるので、確実な数としては一万とみればいいのです。ですから一方の支部を作ってやればたいへんなものですが、それは急にはできないがその目標でやってゆけば、それだけずつ国家的の利益になりますから、そういう方針でやってゆこうと思ってます。無論その支部長になる人は、救世教の教会の支部長というのでなく、信者、未信者を問わず、なるべくその村の篤農家、村長、農会長という人がなって、そうして始終座談会とか指導をして、そうして信仰に関係なく、ただ自然農法の普及という考えでやって行くようにしようと思ってます。ですから信者さんもそういうつもりで、農業をしている人は、あの人をぜひああしたい、あそこに支部を作りたい、ということを心がけていてもらいたいと思います。

 それについて、自然栽培の解説書というような小冊子を作ってます。だいたい『地上天国』の半分くらいの大きさにして一五〇頁くらいです。それは今年、昨年、一昨年の三年間の「特集号」をそっくりそこに載せてますが、その「序文」代わりに載せる論文を読ませます。

 (御論文『自然農法解説』〔序文〕朗読)〔「著述篇」第一一巻八六-八七頁〕

▽次節に続く▽

「『御教え集』十九号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p52~56」 昭和28年02月27日