〔 質問者 〕家族の者で行方不明の場合、また外地などに行って生死不明の場合に、仏壇にお祀りするということはいかがでございましょうか。
【 明主様 】お祀りしていてよいです。
〔 質問者 〕生きていてもよろしいのでございましょうか。
【 明主様 】生きていてもよいです。
〔 質問者 〕戒名でお祀りするのでございましょうか。
【 明主様 】本名でよいです。
〔 質問者 〕よく年月日を書いてありますが。
【 明主様 】それは入れなくてもよいです。やっぱり、生きていて、帰ってきても祀られるということはそれだけのお蔭があります。私の写真を飾って拝んだりするのは、どっちかというと生きている人の扱いではないのです。それからまたおもしろいことは、仮に死んだ人をお祀りして拝みますが、それが生まれ変わってくると、生まれ変わって生きている人に行くのですから、そういうのは、前の世に徳を施したとかなにかで、生きていても思わない良いことがあるとか、そういうことがあります。それから一軒でもよけいが祀るということはよいです。ところがよく田舎とか、都会でもそうですが、長男だけがお祀りして、二男、三男はいらないということを言われてます。そういうことはないので、できるだけ多くの人がお祀りしてやると、それだけの功徳はあるわけです。だから仏様だって、親戚の者でも祀ってやれば、やっぱり霊は喜びます。
昨夜読んだお蔭話で、今度『地上天国』に出しますが、死んだ霊が代わる代わる、死んだ人の奥さん(信者)に憑ってきて救われる、それが実によく書いてあります。「お茶を飲みたい」それでお茶を出しても飲まない。「お許しがないから飲めない」と言うのです。それで「水だけはお許しがあるがお茶は飲めない」。そうしているうちに、そこの家族の者が神様にお願いしたり、祝詞や善言讃詞を奏げているうちに、お茶を飲めるようになったとか、そういうことが実に細かによく書いてあります。それから、そこの家の子供や兄弟や、死んだ者がみんな出てきて、みんな「救われた、救われた」と喜んでいるのがよく書いてあります。少しも嘘とかそういうものがないので、本当のことです。あれは霊界における状態と、救世教によって救われたということがはっきりしてます。この次の『地上天国』に出るでしょう。それで、一三年前に死んだ霊が、お茶をくれと言う……一三年間お茶を飲めなかったのです……。上げるのだが飲めないのです。これは前によく話がありましたが、私が扱ったのは、お茶をおさんどんに上げさせたので、仏様に上げるという気持ちがぜんぜんなかったから飲めないというのです。上げる家の人が、御先祖に飲んでいただきたいという気持ちがあるとおいしく飲めるのです。そうでないとぜんぜん飲めないのです。私はそういう経験がありました。今度はお茶を一杯一杯飲んでいって、一三杯でもうよいと言ったのです。そうすると一年で一杯のお茶を飲むことを許されたという、そういうところが実におもしろいです。霊界は想念の世界だから、人間の想念どおりになったり、またすべて神様のお許しがないとできないということがよく分かります。
〔 質問者 〕区画整理などで、新しい土地が墓の上とかで骨が出る場合がございますが。
【 明主様 】本当はそういう所は家を建ててはいけないのです。建てずにすむ場合は建てないほうがよいです。それからもしそこに霊がいた場合には、霊は人間に踏まれるということは一番嫌うのですから、そこだけは踏まないようにするのです。しかしそこが救世教信者の家なら、それは霊が救われるからよいです。そうしてそこの家の仏壇に位牌をあげて、そうすると朝晩物をもらったりするから、そういう場合は建ててもかまわないです。
〔 質問者 〕そういう場合の名前はどういう具合にでございましょうか。
【 明主様 】そういう骨だけの場合は「諸霊」でもよいです。よくほうぼうに「三界万霊供養」とかありますが、あれはそういう迷っている霊、決まりがつかない霊いっさいを救うという意味です。以前は仏のほうにもそうとう力があったからそれでよいが、今日では仏のほうはぜんぜん力がないから、なんにもならないです。
▽次節に続く▽