教集18 昭和二十八年一月十六日(4)

▽前節から続く▽

 そういうようで酷い日に遭って仇を討つ場合に、すぐに仇を討とうとしないで、時期を待って、逆に出世をして見返してやるという態度に出るのが一番いいのです。どうせ良いものは良いし、悪いものは悪いのですから、いつかは知れるに決まったものですし、まして神様を信ずるものとしたら、神様がほうっておきません。私はそういうように思っているから控訴もしなかったのです。それは向こうのほうが、話にならないくらいの酷いやり方ですから、かえってそういうようにしたほうが、仇討ちといっては変ですが、向こう様は苦しむに決まっているのです。ただ時だけの問題です。大本教のお筆先に「艮の金神は大勢から押し込められて、あるかあらぬ苦しみをいたして居りたが、今度は喜ばして返報<へんぽう>返しをいたすぞよ」というのがありますが、その「喜ばして」というところに神様らしいおもしろいところがあります。やはり神様も知情意<ちじょうい>は人間と同じなのです。ただ人間は返報返しをする場合に、先方を傷つける、先方を酷い目に遭わせる、というのが人間のやり方です。ところが神様は喜ばせるのです。向こうに被害を与えないで仇を討つというやり方なのです。その点が人間の考えからいくとちょっと違うわけです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』十八号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p363~364」 昭和28年01月16日