教集18 昭和二十八年一月六日(3)

▽前節から続く▽

 いま読んだとおり、霊が曇ると罪悪を犯すことになります。ところがいまの宗教は罪を犯してはいかんということだけやかましく言って、では罪を犯す気持ちになるというのはどういうわけかということは言えないのです。ところが罪の構成ですが、罪を犯そうという気持ちは悪ですから、悪の発生というのは霊が曇って、つまり魂が汚れるからです。悪いことをする気持ちになるということは、副守護神の活動が強くなるから、それで副守護神の意志のままに悪いことをする。それを押さえるだけの魂の力がないからそういうことになるのです。以前私が浄霊しているときに、狐が出てこういうことを言ってました。「これほど医者にかからして、やっと死ぬまでにしたのに、貴様横から出てよけいなことをして、とうとうオレの目的を邪魔して、ふとい奴だ」と言うのです。どっちがふとい奴か分からないが……。ですから、医者にかからせ、薬をのませるということは、副守護神がやっているということがよく分かります。そこで薬をのむから霊が曇る。曇ると奴<やっこ>さんが働きよくなり、その人間を自由にあやつることが非常にやりよくなるのです。ですから医者にかかったり薬をのむということは、そういう先生が大いにそう思わせるのです。ですから薬は毒だ、薬というものが人間をそういうように曇らせるということを、人間は気がつかなくても、そういう動物霊のほうがずっと分かっているのです。そうなってくると、動物以下、動物よりも愚かということになるから情けない話です。いまの人間は虫けら同然だと私はよく言いますが、実は獣や動物のほうが文句を言うかもしれません。「オレのほうがずっと上だ」と。そういうことなどが罪穢れの因<もと>ですが、いままでの宗教はそれを看破できなかったところに大いに欠陥があるわけです。だからただお説教で押さえつけるのです。やっぱり原因が分からないために結果に対する防止法がいままでの宗教のやり方だったのです。私は、今度その根本を説くわけです。はっきり見せるわけです。ですから罪穢れを犯す人間にはこのことを分からせなければ、どうしても分からないわけです。これについて、おもしろい経験がありますが、いずれ話します。神様は実に行き届いたことをされるのです。これはやっぱりたいへんな大きな経綸ですが、まだ話がすっかり決まりませんから、話が決まったらその話をします。

▽次節に続く▽

「『御教え集』十八号,岡田茂吉全集講話篇第九巻p351~352」 昭和28年01月06日