教集18 昭和二十八年一月二日(5)

▽前節から続く▽

 仕事の模様はだいたいいまお話ししたような具合ですが、それについておもしろいことは、数字についてお話ししてみると、今年は二十八年ですが、この「二十」というのは「天地を結ぶ」ということです。つまり「王」という字みたいですが、二十は霊体を結ぶということになります。ですから私は結婚の日取りを決める場合に二十何日と、二十を一番よく使います。これは霊体、陰陽、男女、それを結ぶというのですから、たいてい私は二十一日を選びます。これは二人を結んでそれから始まるというわけです。それで二十というのも、これがふだんのときの二十は別にたいしたことはないが、昭和二十年ということにたいへんな意味があるのです。昭和の「昭」の字は日偏に召すという字ですが、「召す」というのは「しろしめす」ということで、「統治する」とか「治める」ということです。これは昔から言いますが「天照大御神がこの国土をしろしめし給う」ということがありますが、そういうことです。それで「日」というのは「昼間の世界」ということです。○<マル>にヽ<チョン>を日の字に書いたので、つまり象形文字です。そういうようで「日がしろしめす」ということですが、それで天照大御神がしろしめすという意味でもないが、昼間の世界で太陽神が統治するという意味になります。それで「和」(輪)というのは、「丸」で、「世界」ということです。ですから、字で解釈するとおもしろいのですが、いまのところはあんまり言えませんが、いずれ話します。そういうようで、昼の世界になるについては霊体が結ばるという、つまり伊都能売<いづのめ>です。それから五、六、七はミロクですが、それがすんで今年は二十八年ですから、いよいよ開くということになります。

 この「八」という字も非常に意味があります。「八」は「富士山」になるのです。富士山の形は八の形になるのです。それで富士山を一名昔から「八<はち>スの山」と言うのです。「八が統<す>べる」というわけです。それで「八」は「五三」ですから伊都能売にもなります。そういうようなわけで、これは日本の将来のあり方を表わしているのです。これはあんまり詳しく言うと、また一人よがりみたいになってしまいますからあんまりは言えませんが、そういうようでミロクが開けるという、それが二十八年からになります。それでちょうど救世教の経綸も、すべてそういう形になりつつあります。それがよく分かります。

 それで今年の『栄光』の「正月号」に「世界夢物語」というのを書いておきましたが、あれはだいたいの漠とした見当ぐらいのところを書いてあるのです。それであれがいろいろに変化しますが、だいたいはあの線をいくのです。あれは中途までしか書いてありませんが、あの中途までは常識で考えてもあのくらいのことは分かるわけですが、あれから先が非常に神秘なのです。これははっきり書くことはできませんが、ただこれだけは言ってもいいと思うことは、いつも言うとおり今度の御神業は破壊と建設です。つまり最後の審判とか天国というのは、破壊と建設が同時に行なわれるということを、私は前から言ってます。それで「世界夢物語」は、その破壊の順序を書いたのです。そうするとその破壊というものは建設のほうと一緒になるのです。建設されただけは破壊されていくと言ってもいいのです。というのは建設というのは日が昇ることです。光が強くなることです。それで強くなるだけは闇のほうがそれだけ消えていくのです。そうするといままでの文化というのは闇の文化ですが、それが消えていくのです。そうするとその建設の雛型が箱根と熱海になります。箱根は霊界のほうで熱海は現界のほうになります。日は霊界、水は現界です。そうすると熱海のメシヤ会館が建設の第一歩になるのです。ですからメシヤ会館ができるとそれが世界に写って、そうして世界にメシヤ会館ができるわけです。それにはいままであった汚いものは取り払われてきれいにされなければならない。ということになると、日本はいま言う日の経綸になるからして、それだけ日の光が強くなると、だんだん世界的に汚いものが消えていくのです。つまり黒の部分がだんだん薄くなって白が拡がっていくということになります。そうすると、その拡がり方の順序が「世界夢物語」に書いてある順序になるわけです。だからメシヤ会館ができると、それから本当に目立って始まるのです。ですから私はまだ半年や一年の準備期間がいるということを書いてありますが、メシヤ会館がちょうど今年いっぱいでできる予定ですから、時もそういうことになるわけです。ですからして世界がどうなっていくかということは、こっちの建設のほうを見ていれば分かるわけです。そうするといままでの文化は破壊されるほうがずっと多いですから、そこでそれをキリストは「世の終わり」と言ったわけです。そういうように考えていくと、だいたいは見当がつきます。そうかといって、これはあんまりはっきりと具体的に言うことはどうもおもしろくありません。建設のほうはいい気持ちになりますが、破壊されて滅亡するほうは、実にどうも悲観しなければならないから、そうすると「救世教というどうも厄介なものが出た」と恨んだりしますから、そういうことがあってはいけないから、そこでできるだけぼかして、救世教の信者だけがだいたいをよく知っているということにしておかなければ具合が悪いのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』十八号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p329~331」 昭和28年01月02日